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天童藩は、幕末に大名小路に上屋敷、鉄砲洲築地に下屋敷を構えていました。
今回はこのうち、かつての大名小路、現在の東京都千代田区丸の内2丁目5番地にあった上屋敷跡を訪ねてみたいと思います。
(グーグルマップは天童藩上屋敷跡に建つ三菱ビルディングを示しています。)
東京駅丸の内南口
出発場所は東京駅丸の内南口です。
東京駅は大正2年(1914)に帝都東京の玄関口としてつくられました。
現在立っている丸の内側の赤レンガ造りの駅舎は、辰野金吾らが設計した日本を代表する近代建築、2003年には国の重要文化財に指定されています。
そして忘れてはならないのが、この地で起こった歴史的事件です。
大正12年(1921)11月4日、当時の首相・原敬が中岡艮一によって刺殺される事件が起こった場所。
現在は丸の内口の北東、券売機横の壁面に事件の概要を示したプレートがあり、その前の床面には事件現場を示す小さな目印が埋め込まれていますので、ぜひご覧ください。
東京中央郵便舎
さて、東京駅丸の内南口の前には、道を挟んで古い建物と新しい高層ビルが組み合わさった建物がJPタワー、その低層部分が2013年に開業した商業施設・KITTE丸の内です。
この建物の下層部分にある古そうな建物が、歴史的名建築と称賛されていた東京中央郵便舎の一部を保存・再生した施設なのです。
この旧東京中央郵便舎は通信省技師だった吉田鐵郎が設計、昭和8年(1933)に完成しました。
日本の新建築の最高峰としてブルーノ・タウトなど海外の著名な建築家たちからも絶賛され、日本における昭和初期モダニズムを代表する建築として高い評価を受けていました。
天童藩上屋敷跡を歩く・その1
このKITTEの前を西に進んで都道402号を渡ると、SkyBus丸の内・三菱ビルディングに到着、ここが天童藩上屋敷の跡地です。
ここで、「大名小路 神田橋内 内櫻田之図」(景山致恭(尾張屋清七、嘉永2年))と現状を比べてみましょう。
先ほど渡ったKITTEの北西角の交差点、よくみると東西に走る道が、道幅の違いもあってずれているのに気づきませんか?
このずれを頭に入れて改めて地図を見てみると・・・地図の上から下に走る道がずれた場所がありますね!
そう、これがかつての街区の名残。
残念ながら、街区整備や道路拡張などで切絵図とは道路位置が同じではなく、切絵図の交差点の場所は少し北にずれています。
ですので、まさに今立っている場所が、かつての天童藩上屋敷の表門あたり。
ここから南に、天童藩、越前国勝山藩小笠原家、近江国三上藩遠藤家と、同じくらいの規模の屋敷が並んでいましたが、このうち天童藩邸と勝山藩邸の半分くらいが現在の三菱ビルディングとなっています。
三菱ビルディング
この三菱ビルディングは昭和48年(1973)竣工、機能的なデザインが目を引きますが、第15回BSC賞を受賞した、建築の世界では高い評価を受けているビルなんだそうです。
このBCS賞とは、「「優秀な建築物を作り出すためには、デザインだけでなく施工技術も重要であり、建築主、設計者、施工者の三者による理解が必要である」という建築業協会初代理事長竹中藤右衛門の発意により昭和35年(1960)に創設された」(日本建設業連合Webサイトより)で、受賞作は第1回(1960)が東京電波塔(東京タワー)、第6回(1965)が国立屋内総合競技場(代々木体育館)、第10回(1969)が霞が関ビルディングと、現代日本を代表する建築が受賞しています。(同上)
ちなみに、東京駅も第58回(2017)八重津口再開発グランルーフなどが受賞していますので、気になる方は帰りに見に行ってください。
三菱本館
話を三菱ビルディングに戻しまして。
ちょっと拝見したところ、現在は三菱化学など、三菱グループの大企業がテナントになっている様子です。
それもそのはず、このビルが建つ前には、この地に三菱本館が建っていました。
この三菱本館は1918年竣工の石造4階建てのいかめしいビルで、文字通り三菱財閥の総本山だったのです。
天童藩上屋敷跡を歩く・その2
さて、今度は三菱ビルディングの周りを一回りしてみましょう。
ビルの北東隅からスタートして、ビルの正面入り口付近が、かつての天童藩上屋敷と勝山藩上屋敷の境界あたりでしょうか。
さらに進んで南東角を曲がると、南北に走る丸の内仲通りが見えてきました。
切絵図にある勝山藩上屋敷と林大学頭屋敷の間には、この当時はなかったおしゃれな並木道がつくられていますので、ここを曲がって北上しましょう。
道沿いにはおしゃれな店が並び、アート作品も置かれているうえに、並木が育って快い日陰を作り出してくれていました。
この並木のベンチで一休みしながら、天童藩上屋敷についておさらいしたいと思います。
天童藩上屋敷とは
本編で見たとおり、江戸時代に織田家は、上野国小幡、出羽国高畠、そして出羽国天童と、三度にわたって居所を移さざるを得ませんでした。
しかし、江戸藩邸のうち上屋敷についてみてみると、元禄8年(1698)から宝暦12年(1762)までは鍛冶橋内、寛政11年(1799)は八代河岸(八重洲河岸?)、安政2年(1856)は大名小路(『江戸幕藩大名家事典』上巻、小川恭一編(原書房、1992))とあることからみると、どうやら江戸時代を通じてこの近辺に上屋敷を拝領していたとみられます。
安政2年(1856)時点で上屋敷の広さは2,131坪余と、石高に見合った規模といえるでしょう。
またこの上屋敷は、小幡藩時代の第五代藩主・織田信右治世の宝暦7年(1757)に全焼し、その前年の宝暦6年(1756)には借金が二千六百余両となっていましたので、藩財政は破綻の危機をむかえたのは、第2回「小幡藩誕生」でみたところです。
この危機を乗り切ることができたのか、ぜひ本編をご覧ください。
江戸安政地震
さて、江戸は災害の多い都市でしたが、江戸城外濠内にあって大名屋敷が集まる大名小路も例外ではなく、火災をはじめとする多くに災害に見舞われてきました。
一例をあげると、安政2年(1856)に発生した江戸安政大地震では、大名小路に被害が集中したのです。
大名小路の多くの屋敷が消失し、二軒隣の三上藩遠藤家上屋敷は消失、越前勝山藩上屋敷では死傷者10名で邸内の長屋が焼けています。
しかしこのとき、天童藩上屋敷では死傷者5名が出たものの、建物は消失を免れてました。(内閣府防災情報Webサイト「1855安政地震」、中村操・松浦律子2011より)
その後、明治4年(1871)11月に、廃藩置県により東京へと移った信学・信敏父子は、かつての天童藩上屋敷を下賜されてここに移りました。
しかし、ようやく落ち着いたと思った矢先の明治5年(1872)2月に、なんと自宅が消失してしまったのです。(第13話「天童藩消滅」参照)
銀座大火
明治5年(1872)2月26日午後2時、和田倉門内の元会津藩上屋敷、当時の兵部省添屋敷から出火、折からの冬の乾いた風に乗って次々と延焼し、銀座から築地にかけて四十数カ町を焼失して午後10時ようやく鎮火しました。(『中央区年表』)
この火事による焼失地を現した『東京府下焼失跡測量家作図』によると、元会津藩上屋敷で出火したのち、火は江戸城内堀を越えて旧林大学屋敷付近に飛び火、さらに火勢を広げて、ついには信学・信敏父子が住んでいたかつての天童藩上屋敷が焼失したことが分かります。
ちなみに、この火事により不燃都市建設の議論が起こり、東京府知事由利公正は英国人トーマス・ウォートルスに設計を依頼して煉瓦街建設に着手しました。(『中央区年表』)
この煉瓦街は明治10年に完成して、煉瓦建築と同時に行われた街路整備によって、銀座は日本初の煉瓦街として生まれ変わり、「文明開化」の象徴として広く知られることとなったのです。(国立公文書館Webサイト)
この火事で邸宅と財産を失った織田信学・信敏親子は、本所区相生町五丁目14番地に移りました。(『官許貴家一覧 武家華族之部』雁金屋清吉、1873)
いっぽうで、焼失した織田家邸宅跡地はそのまま上地となりますが、「明治東京全図」を見ると、東京鎮台の兵営として利用されています。
その後、明治27年(1894)の三菱一号館を手始めとして三菱による丸の内再開発が行われ、その最後を飾ったのが前に見た大正7年(1918)竣工の三菱本館でした。
最初にみた大正2年(1914)竣工の東京駅もこれと同時期に行われた開発事業の一環だったわけです。
さらに、大正12年(1923)に発生した関東大震災後に行われた帝都復興事業で、丸の内では大規模再開発が行われ、前にみた東京中央郵便舎をはじめ、丸ビルなど、当時の最先端施設が数多くつくられたのでした。
さて、そろそろ散策に戻りましょう。
三菱ビルディングの北西角を曲がると、向こうに東京駅が見えています。
振り返って100mほど西に進むと、日比谷通りにいたり、ここに地下鉄千代田線二重橋駅の入り口があります。
さらにその向こうには馬場先濠をへだてて皇居外苑、さらには皇居が広がっているのです。
このまま東京駅丸の内南口に戻って今回の散策は終了です。
平坦な約800mの短いコースでしたので、天童藩上屋敷の隣にあった勝山藩上屋敷跡や、その東100mほどのところにある津山藩鍛冶橋上屋敷跡などを訪れてみてはいかがでしょうか。
また、話に出てきたKITTEや三菱一号館、丸ビル、さらには皇居と皇居東御苑(旧江戸城本丸)、二の丸庭園なども近くにありますので、こちらもおすすめです。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
「大名小路 神田橋内 内櫻田之図」(景山致恭(尾張屋清七、嘉永2年))
『東京府下焼失跡測量家作図』太政官、明治5年2月
「明治東京全図」明治9年(1876)
『官許貴家一覧 武家華族之部』雁金屋清吉、1873
『中央区年表 明治文化篇』東京都中央区立京橋図書館、1958
『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)
『江戸幕藩大名家事典』上巻、小川恭一編(原書房、1992)
「1855年安政江戸地震の被害と詳細震度分布」中村操・松浦律子『歴史地震』第26号歴史地震研究会、2011
「災害に学ぶ」国立公文書館Webサイト、内閣府防災情報Webサイト、日本建設業連合Webサイト
千代田区および事業者設置の案内板
参考文献:
『江戸・東京 歴史の散歩道2 千代田区・新宿区・文京区』街と暮らし社編(町と暮らし社、2000)
次回は築地の天童藩下屋敷を歩いてみましょう。
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