前回、北朝側についた平泉寺は、南朝方の大将・新田義貞が討ち死にするきっかけをつくる功をあげ、越前の支配者たちから庇護をうけるようになるまでをみてきました。
そこで今回は、空前の繁栄を迎えて宗教都市にまで成長した平泉寺をみてみましょう。
繁栄を極める平泉寺
前回みたように、南北朝期の調略以来、平泉寺は越前守護となった斯波氏の厚い保護を受けることになりました。
その後、応仁元年(1467)に応仁の乱が勃発すると、その混乱は越前にも及びます。
すると、斯波氏の内紛に乗じて斯波氏の被官だった朝倉孝景が越前国の実権を掌握、文明3年(1471)には越前の守護になりました。
戦国大名の朝倉氏のもとでも平泉寺への手厚い保護は続きます。
そして、「朝倉始末記」によると、平泉寺は48社、36堂、院坊あわせて6,000、僧兵8,000と称される全盛期を迎えることになりました。
平泉寺の収入源
このころの所領を9万石とするものもありますので、もはや小さな戦国大名並みといっても過言ではありません。
この時期の平泉寺は、ほぼ現在の勝山市域を寺領に収めただけでなく、一部は大野市域や福井市の藤島周辺にまで及んでいます。
有力な坊は朝倉氏の一族から得度したものを受け入れて、朝倉氏と平泉寺は密接な関係を築いていきました。
さらにまた、平泉寺は泰澄伝承の権威を背景に広範囲から米や銭を収納していたうえに、これを元手として金貸しを行って大きな利潤を得ていたといいますから驚きですね。
今に残る繁栄の跡
このころの平泉寺の繁栄ぶりをうかがわせるものがありますので、こちらをみてみましょう。
一つ目は平泉寺講堂跡です。
弘治年間(1555~1558)に焼失した講堂を六千坊の分担で再建したのですが、その規模が南北4間・東西7間という巨大なものでした。
いま一つは、平泉寺の象徴ともなっている石畳みの参道です。
全長1,400mを図る菩提林の参道は、すべてが石畳みを敷き詰めたもの。
巨木に囲まれた苔むした石畳は趣深く、環境庁が選定した日本の道百選にも選ばれています。
面打ちの三光坊
また、平泉寺の文化を今に伝えてくれるのが能面です。
戦国時代、平泉寺の僧に三光坊という能の面を打つ名手が現れました。
その技は弟子たちに受け継がれるなかで、越前出目家、大野出目家、近江井関家という面打ちを世襲する三大家系となって、江戸時代を通じて活躍することになったのです。
今回は、空前の繁栄を迎えて宗教都市にまで成長した平泉寺をみてきました。
次回は、平泉寺繁栄の終わりをみてみましょう。
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