前回みたように、鳥羽伏見の戦い後の対応をめぐって窮地に立つことになった和歌山藩紀州徳川家ですが、水野忠幹による懸命の工作も效を奏して危機を乗り越えることができました。
じつはこれが忠幹にとって和歌山藩付家老として最後の大仕事となったのです。
そこで今回は、新宮藩の誕生をみてみましょう。
新宮藩成立
前回みた和歌山藩の弁明書を忠幹が提出したのと同じ慶応4年(1868)1月14日に、朝廷から徳川御三家の付家老を務める5家に対して、以後藩屏の列に加えられる旨を令せられました。
こうして、晴れて新宮藩3万5,000石の大名となるとともに、和歌山藩付家老の任も解かれて完全に独立した大名となったのです。
これにより忠幹は4月1日新宮城に入り、新宮藩政を執ることになりました。
この時の高は、本田高3万5,743石と新田高6,569石です。
そして明治2年(1869)3月28日には版籍奉還を願い出ると、6月20日には版籍奉還の実施によって新宮藩知事に任ぜられました。
この年の10月から翌明治3年(1870)3月にかけて、新しい藩の機構が発令され、大参事以下東京詰役人など、主だった任官を行っています。
また、藩庁舎を新宮城外に新築して、ここで忠幹は政務を執り行ったのです。
兵制についても、6月にこれまでの英式を仏式に改革を行っています。
忠幹の藩政
忠幹は、3月17日から自ら管内を巡察するとともに、藩内の殖産興業に力を入れました。
また、牟婁郡阿田和村で32町余の水田を開いたのをはじめ、大台ケ原開発を手掛けるなど、管内各所で新田開発を行っています。
さらに、山深い熊野で山間奥地の交通路の整備にも積極的に投資を行ったのでした。
そのほかに、新宮藩は、明治3年(1870)12月に大阪の土佐九十九商会、のちの三菱会社から蒸気船を購入し、その代金の一部を無利息借り入れとしました。
借り入れにあたって、明治元年(1868)に発見された牟婁郡宮井村字乙河と日足村字志古万歳山で発見された石炭山、のちの万歳・音羽炭鉱の15年間の開発権利を担保として差し出しています。
しかし、しばらくして三菱は万歳・音羽炭鉱の開発から手を引いています。
藩校・育英堂
また忠幹は、8代忠啓の文化年間(天明あるいは寛政のころとする説もあります)に宇井塁庵の家塾・鬱翠園を改称して設立した漢学所の改変にも取り組みます。
明治2年(1869)10月には学則を定めるとともに、督学・教授・都講・権都講・授読助教などを置いて制度を整えるとともに、四民の入学を許したのです。
こうして新宮藩の藩校が成立し、育英堂と名付けられました。
新宮横町に設けられた育英堂では、7・8歳から15・6歳までを小学して、初級では『孝経』や四書、中級で五経や『十八史略』『蒙求』、上級で『春秋左氏伝』『史記』『文章軌範』を学び、20歳までに中学の初・中・上級を終えるという仕組みでした。
明治2年(1869)末で寄宿生170余名、通学生200余名という盛況ぶりだったといいます。
新宮藩消滅
ここまで見たように、忠幹が全力で藩政に取り組む中、明治4年(1871)7月には、廃藩置県にともなって藩知事を免官されてしまいます。
さらに9月には上京を命ぜられて東京に移住すると、忠幹は再び新宮へ帰ることはなかったのです。
先ほどみた藩校育英堂は、廃藩置県に伴って新宮県学校と改称されたうえに、11月に新宮県が消滅しても、郷学所と名を改められて存続しました。
新宮県
忠幹が東京へ去った後の新宮についても見ておきましょう。
明治4年(1871)7月14日、廃藩置県の断行により、新宮藩の所轄区域をそのまま管下に引き継いで、新宮藩が成立、県庁を新宮城外花畑の旧藩庁に開設します。
しかし11月22日の府県再編制実施にともない新宮県は廃止となります。
この処分により、北山川と十津川の合流点から下流の熊野川中央を境界とし、その以東が度会県(のちの三重県)に、以西が和歌山県に編入されることとなり、旧新宮県は分割されることになりました。
翌明治5年(1872)4月29日、旧新宮県所轄のうち、牟婁郡東部の高1万8,367石を度会県に、ついで5月25日には牟婁郡西部・有田・日高・名草郡などの高2万3,977石が再置の和歌山県に、それぞれ引き渡して引継ぎを完了して、旧新宮県の名義は6月19日をもって消滅します。
このとき、旧職員のなかで和歌山県勤務に転属できたのはわずかに7名でした。
新宮城
寛文7年(1667)、新宮水野家三代重上が完成させた新宮城ですが、廃藩置県にともなって廃城となりました。(第9回「新宮城」参照)
その後、明治8年(1875)には天守以下の建物が払い下げられるとともに、取り壊されています。
さらに城地も百円で払い下げられて私有地になり、さらに大正8年(1919)には濠を埋め立てられて市街地となりました。
現在は城跡が公園として整備されるとともに、一部は旅館敷地となって、本丸や鐘の丸・松の丸などの石垣が残されています。(第10回「丹鶴城の想い出」参照)
こうして廃藩置県により、忠幹は上京の命を受けて新宮を去り、二度と戻ることはありませんでした。
次回は、上京した忠幹についてみてみましょう。
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