私の問屋橋 問屋橋(とんやばし)編 ③

前回まで問屋橋と浜町川の歴史を見てきました。

話しは戻って、冒頭でこの橋の形式について一つの謎があると書いたのを覚えておられるでしょうか?。

ここではその続きをご報告します。

問屋橋跡の交差点の画像。
【問屋橋交差点(2020年撮影)】

可能な限り文献資料や絵画資料に当たったのですが、問屋橋が上路式トラス橋であるとするものに出会えません。

出てくるのはどれも、この橋の形式を鋼鈑桁橋とするものばかりです。

たしかに、上路式の単純トラス橋は山などの高低差が大きい場所に造られるイメージで、この場所にふさわしいとは言えません。

「御茶の水橋幷ニコライ堂の遠景」(『東京景色写真版』江木商店、明治26年?国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「御茶の水橋幷ニコライ堂の遠景」『東京景色写真版』江木商店、明治26年?国立国会図書館デジタルコレクション)】

写真は上路式トラス橋の旧御茶ノ水橋です(「御茶の水橋幷ニコライ堂の遠景」『東京景色写真版』明治26年?)。

前に触れましたが、問屋橋のような低い平らな土地でこの形式の橋を作ると、桁下空間が確保しにくく河川交通に支障をきたす恐れがあります。

問屋橋想像図の画像。
【問屋橋想像図】

あれほどワクワクしたところですが、やはり問屋橋は鋼鈑桁橋として復元想像図を描きました。

親柱や高欄などの形態は不明、橋のデザインについての情報も皆無なので、形式や規模の似通った橋から援用して制作しています。

浜町川の静かな水面に映えて、きっと素晴らしい光景が見られたのだろうと想像を新たにするのでした。

驚くことがさらにもう一つ、冒頭で書いた歩道部分の舗装についてカラーリングを変えて橋の跡を示している、という件です。

問屋橋跡の交差点画像。
【問屋橋跡の交差点(2020年)】

現地写真を撮っていると、一組の親子連れにお出会いしました。

何を撮影しているのか聞かれましたので、問屋橋の話をしたのです。

地元出身というお母さん、この橋のことをご存じなくて熱心に話を聞いてくださったのですが、歩道のカラーリングについては私が間違っているとおっしゃいます。

歩道の色が違うのは、車の出入りがある所という意味だ、というのです。

さっそく周辺を確認してみると、全くこの女性の言うとおりでした。

もう恥ずかしいやら悲しいやらで慌てふためいた私は、とにかくこの親子にお礼を言って、逃げ出すように足早にこの地を後にしたのです。

そして現在、近くに来た時は必ず問屋橋の交差点に立って粗忽な自分を思い返すことにしています。

こうして苦い思い出とともに、問屋橋は私にとって忘れがたい大切な橋となったのでした。

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にさせていただきました。(順不同、敬称略)また、文中では敬称を省略させていただきました。

引用文献:『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』復興調査協会編(興文堂書院、1930)、『帝都復興事業誌 土木編 上巻』復興事務局編(復興事務局、1931)、『帝都復興区劃整理誌 第1篇 帝都復興事業概観』東京市編(東京市、1932)、『東京市史稿 橋梁篇第一』(東京市役所、1936)、『中央区史 上巻・下巻』(東京都中央区役所、1958)、石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』(新人物往来社、1977)、『千代田区史 区政史編』(千代田区総務部、1998)、『中央区文化財調査報告書 第5集 中央区の橋・橋詰広場-中央区近代橋梁調査-』(東京都中央区教育委員会教育課文化財係、1999)

参考文献:伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』(鹿島出版会、1986)、鈴木理生『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』(柏書房、2003)、本田創『東京暗渠学』(洋泉社、2017)

追記:この文章を上程後に、地元の方から昭和天皇行幸のルートは問屋橋を通らず明治座の前を通過するものであったとのご教示をいただきました。

再度調査いたしましたところ、たしかにおっしゃる通りでしたので、ここにお詫び申し上げるとともに訂正の一文を掲載させていただきます。

ご連絡いただきありがとうございました。

トコトコ鳥蔵では、みなさんのご意見やご感想をお待ちしております。

次は元高砂橋です。

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