前回見たように、明治16年(1883)に浜町川の延長に伴って架けられたのが大和橋でした。
ここからは、大和橋の数奇な運命を見ていきましょう。
当初は木橋だった大和橋は、長さ11mの鋼桁橋に架け替えられます。
「市区改正番地入東京区分地図 神田区之部」は、架け替え前にあたる木橋時代の橋なのでしょう。
大和橋が木橋から鉄橋に架け替えられたのは、この橋の上を通る道(現在の神田平成通り)が拡幅・整備されて幹線道路となったためで、交通量の増加を見越して幅11mとかなり幅広に改められています。
浜町川の水運と幹線道路が交差する大和橋周辺は、交通の要所として、また商業地として賑わいをみせました。
そんな中、大正12年(1923)に関東大震災が発生します。
大和橋周辺も火災により一面が焼け野原となる甚大な被害を受けましたが、大和橋自体は大きな損傷なく残りました。
そしてその復興事業の目玉として、東京を東西に貫通する大通り・靖国通りが計画されて、これが大和橋を通ることとなったのです。
こうして大和橋は震災復興事業で生まれ変わり、大きくその姿を変えることとなります。
その様子を『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』で見てみましょう。
ここにはまず、生まれ変わった大和橋の姿をとらえた写真を添えて橋の規模についての詳しい説明が記されています。
それによると、元あった橋(幹線第49号路線)は橋長11.824mと同じですが、有効幅員は倍近い21.670mに拡幅されました。
このうち、新しくできた靖国通り部分(幹線第2号路線)は、橋長13.491m、有効幅員は36.001mです。
驚くことに、2つの大通りがまさに大和橋上で合流するので、二つの橋を一つの橋につなぎ合わる力技!
歩道も加えた橋の幅が平均62.83m、有効面積は761.141㎡で、「橋の中央部には3寸高さの安全地帯81坪7合」まで備えた平面形が台形をした幅が極端に広い橋が誕生したのです。
前掲『帝都復興史』によると、
「橋台の基礎は杭打基礎を採用し、橋体は鉄骨コンクリートの築造になっている。橋の表面は間知石を以つて仕上げたるもので頗る美観を添えている」
という この橋は、「幅に於てはおそらく日本一の橋」という堂々たる姿に生まれ変わったのでした。
この橋の建設に要したのは費用101,000円と16か月の工期(起工:大正15年8月、竣工:昭和4年6月、引継:昭和4年12月)です。(『帝都復興事業誌 土木編 上巻』)
当初の計画では、長さ15.9mと11.9m、幅65.2mの鋼鈑桁を工期16か月、予算213,260円で建設する予定でした(『帝都復興区劃整理誌 第1篇 帝都復興事業概観』東京市編(東京市、昭和7年))ので、実際はかなり安くつきました。
その理由は、震災で残った橋をそのまま鉄骨コンクリート橋に転用したからではないか、と私はにらんでいます。
さて、この工事について、再び『帝都復興史』を見てみましょう。
「地盤は固い粘土質の岩のように固まっている處で、工事は楽であった」のですが、二本の橋が一つにつながる「鉄桁の斜線と直線を継ぎ合わせるのに苦心した」とあり、別々に工事を進めて最後に二橋を接合する方法で工期を短縮したようです。
橋の本体工事は構造が比較的単純な鋼桁橋であるうえに地盤にも恵まれていたので、それほど難しいものではなかったのでしょう。
こうして誕生した「幅は日本一で4台の電車が肩を並べて通る」(『帝都復興史』)大和橋ですが、残念ながら人々の注目を集めることはありませんでした。
それでも激しい交通にもびくともせずに耐え抜き、見事にその役割を果たしていたのです。
ところが、大和橋が堂々とした姿に生まれ変わってわずか16年後に、この橋を再び悲劇が襲います。
次回は大和橋が直面した新たな苦難を見てみましょう。
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