前回に続いて、今回は竹橋事件について見てみましょう。
竹橋事件とは、明治11年(1878)8月23日、旧江戸城北の丸に設置されていた近衛(このえ)砲兵大隊と近衛歩兵第二連隊の兵士が突然反乱を起こして武装蜂起した事件で、日本軍で最初の反乱です。
近衛連隊とは、天皇を護衛するのを主要な任務とする部隊です。
歌川国利「御鳳輦之図」(明治22年 メトロポリタン美術館蔵)でもわかるように、天皇皇后両陛下が乗る馬車の前後を近衛騎兵が守護しています。
それに加えて、画面中にはありませんが、この時も沿道を近衛歩兵が守っていると思われます。
このように近衛連隊は、いつも天皇や皇居を守護する重責を担っていました。
しかし、この事件で反乱した部隊は西南戦争に従軍し、田原坂などで西郷軍との激戦を制する数々の武功を上げています。
ところが、帰還後には恩賞として褒美を与えるはずでしたが、それどころか実際には財政難を理由に給料の35%減ともいわれる大幅減額されてしまいます。
命を懸けて国のために戦ったのに、褒美どころか大幅な減給というあり得ない待遇に抗議するために、この処遇を実施した大蔵卿大隈重信の殺害と、自分たちの不条理な処遇を明治天皇へ直訴することを目指したとされています。
また、明治後期の赤坂御所(現在の赤坂離宮)(寿佐登連編『陸軍写真画帖』明治44年)の映像を見ると、近衛歩兵が隊列を組んで行進しているのが分かります。
このように、近衛歩兵は赤坂御所に任務でよく行っていたことも、天皇への直訴という手段を選択した背景にあるのかもしれません。
ついに事件当日夜に、約260人の兵士が反乱を起こし、上官を殺害、皇居への進軍を試みます。
目的地は前述したように、雉子橋の大隈重信邸と、当時の仮御所(現・赤坂離宮)でした。
ところが計画が事前に漏れていたこともあって、近衛第一・第二歩兵連隊が迎撃、銃撃戦の末、翌朝に鎮圧されました。
その時の様子は、「この時(近衛砲兵大隊長宇都宮少佐が殺害された時)、非常喇叭を聞いて営門前に整列した近衛歩兵第一第二聯隊は、この有様(武装蜂起している状況)を見て、士官が「打て!」の号令を合図に小銃を乱発すれば、暴徒(近衛砲兵大隊)もこれに応じて二発の大砲を打放し、猶ほ小銃を取つて拒ぎ戦ひ、竹橋付近は宛然戦場と化した。」(小島徳弥「近衛砲兵暴動事件」『明治以降大事件の真相と判例』昭和9年 教文社、括弧は筆者注記)と記されています。
東京のど真中で大砲まで使っての銃撃戦とは、これはもうびっくりです。
写真(寿佐登連編『陸軍写真画帖』明治44年美盛堂)は事件から30年ほど後の近衛第一第二連隊入口ですが、この門内で銃撃戦が行われたのです。
門を抜けて竹橋を渡ると、大隈重信の邸宅は目と鼻の先、反乱軍も突破に全精力を傾けるでしょうし、鎮圧軍もまた絶対に譲れないところです。
一夜に及ぶ激戦のあと、すみやかに事件は収束させられるとともに、そのすぐ後に、反乱兵士259名には厳しい罰が下されました。
その内容は、下士官2名を含む53名が死刑、准流刑118名、徒刑68名などとなっています。
参加した兵士たちは大半が徴兵された農民で、平均年齢は若干24歳でした。
竹橋事件の後も、引き続いて「竹橋営所」がこの地に置かれていました。
時期は下りますが、昭和22年の空中写真をみると、解体前の近衛師団の施設が残っており、当時の様子をしのぶことができます。
話しを竹橋に戻しましょう。
ここまで見てきたように、近衛連隊の表口だった竹橋は、じつは大正12年の関東大震災で竹橋も大きな被害を受けています。
東京府編『東京府大正震災誌』(大正14年 東京府)所載の「神田空撮」を見ると、右下に見える竹橋は、なんとかその形を残して、継続して使用されているようです。
しかし、橋の周辺は一面の焼け野が原となっていて、この一帯の被害の大きさがわかると思います。
こうして、大正15年に震災復興で東京市により新しい橋に架け替えられることになりました。その橋が現在の竹橋です。
次回では、ちょっと寄り道をして竹橋周辺を散策してみましょう。
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