前回まで明治時代から終戦までの津山松平家についてみてきました。
明治から昭和の津山松平家は数々のスキャンダルで名をはせることになるのですが、今回はその最初、男爵失踪事件から見ていくこととしましょう。
松平男爵失踪
明治29年(1896)秋のある日の朝、来客で家のものは総出で玄関前に並んでお出迎えする脇をぬけて紳士が屋敷の門を出ていったきり行方知らずとなりました。
これが松平斉(ひとし)男爵失踪の瞬間です。(『明治・大正・昭和 華族事件録』)
松平斉(1874~?)
松平斉は旧津山藩主・松平斉民の八男として明治7年(1874)に生まれ、津山松平家による激しい昇爵運動の末、明治21年(1888)11月に父斉民の勲功で分家して男爵に叙されたのは、前にみたところです。(第9回・大名華族松平康民と康春参照)
男爵邸は松平子爵邸内にあって、まだ独立した邸宅を構えてはいません。
斉の兄・康民は斉民の五男で、明治11年(1878)に本家の家督を継いで、17年(1884)には子爵を襲爵、事件発生時は貴族院議員を勤めていました。
そして失踪当時、斉は兄の家に同居、東京帝国大学理学部に入学して植物学を学んでいたのです。
外出するといえば植物の採集くらいで、朝から晩まで大学の研究室で研究三昧の日々を送っていました。
このように学問一途だった斉は、明治29年(1896)に徳川慶喜の七女浪子と結婚し、失踪当時は妊娠5ヶ月でした。
父斉民が十一代将軍家斉の十四男でしたので、徳川宗家一族間の政治性の見える結婚でしたが、結婚して七ヶ月の間、円満な新婚生活を送っていたのです。
斉に愛人がいた形跡もありませんし、失踪理由は謎のまま。
謎が謎を呼ぶ男爵失踪事件は、推理小説の題材にもなっています。
斉失踪後の松平男爵家
斉が失踪した後、松平男爵家はどうなってしまうのでしょうか。
松平男爵家には、確堂が明治24年(1891)に没すると、後に見るように姿見邸跡地と根岸邸が八男の松平斉に譲渡されましたので、十分な資産がありました。
前に記したように結婚前から本邸に同居していたこともあって、結婚後も斉夫妻は松平子爵家本郷本邸に同居していましたのです。
そして、明治29年秋に斉は突然失踪してしまいます。
先ほど見たように、その時身重だった妻の浪子は本郷邸に同居していましたが、松平男爵家は斉名義で明治36年(1903)には根岸邸を本邸としている(『人事興信録 初版』)ことから見て、明治30年(1897)に長男斉光が誕生するのと前後して根岸邸に移ったようです。
そして浪子はこのまま根岸邸で斉光を育てています。
姿見屋敷に戻る
その後、成人した斉光は大正10年(1921)までに、再び姿見邸跡地の一角、豊多摩郡戸塚町源兵衛192の屋敷に母・浪子を連れて戻りました。(『人事興信録 第6版』)
これは、斉光が結婚を控えて住む家を整えたということでしょうか。
そして大正13年(1924)頃には徳川(水戸)侯爵家昭武三女の直子と結婚、その後一男三女に恵まれて、昭和18年(1943)には母浪子とこの家で暮らしています。(『人事興信録 第14版下』)
ところで、斉光は大正10年(1921)に東京帝国大学法科政治科を卒業して、大正14年(1925)からイギリスとフランスに留学、パリ大学から博士号を受けています。(『議会制度七十年史』)
帰国した昭和2年(1927)からは、東京帝国大学農学部、日本大学や法政大学の明治大学講師となり(『議会制度七十年史』)、その後駒場農大講師として農政経済学を教えるようになっています。(『戸塚町誌』)
昭和21年(1946)5月から昭和22年(1947)5月まで、日本国憲法の施行によって貴族院が廃止されるまでの最後の期間、貴族院議員を務めました。(『議会制度七十年史』)
そして日本国憲法施行により華族制度が廃止されたことで、松平男爵家は廃爵となりました。
その後、浪子は昭和29年(1954)に没、斉光は都立大学の名誉教授となった後、昭和54年(1979)に没、家督は長男の斉義が継承しています。(『平成新修 旧華族家系大成』)
旧松平男爵家の戦後
その後、浪子は昭和29年(1954)に没し、斉光は都立大学の名誉教授となった後、昭和54年(1979)に没、家督は長男の斉義が継承しています。(『平成新修 旧華族家系大成』)
かつて松平斉が望んだ学問にまい進する穏やかな生涯を、息子の齊光が送ったことに、私はちょっとほっとした気分になりました。
なにより、一族徳川家からの支援があったとはいえ大変な時機を乗り越えた浪子に、不遜ながら共感と感動を覚えずにはおられません。
今回は松平子爵家から分家した松平男爵家の歴史をたどりました。
次回は、松平子爵家に次々と起こったスキャンダルを見ていきたいと思います。
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