《最寄り駅:JR山手線・京浜東北線 御徒町駅、東京メトロ日比谷線仲御徒町駅、都営銀座線上野広小路駅、都営大江戸線 上野御徒町駅・新御徒町駅》
「武家屋敷名鑑」によると、安政2年(1855)柳川藩は下谷御徒町に上屋敷、浅草鳥越に拝領中屋敷、浅草末に拝領下屋敷を持っていました。(『江戸幕藩大名家事典』)
そのうち今回は、下谷御徒町の上屋敷跡、現在の東京都台東区東上野1丁目を歩いてみましょう。
なお、この屋敷跡は明治以降、そのまま立花伯爵邸となっていますので、こちらも併せてみていくことにします。
また、コースはJR御徒町駅北口を出発して、都営大江戸線・新御徒町駅A1口を通って再びJR御徒町駅北口に還るコースで、全長約1.8㎞です。
《グーグルマップは、西町太郎稲荷神社を示しています。》
御徒町
JR御徒町駅の北口を出ると、目の前に東西方向に走る春日通が飛び込んできました。
春日通を西方向・左へ進むと松坂屋上野店そばの都営銀座線・上野広小路駅と大江戸線・上野御徒町駅を通って湯島天神、北へ春日道を渡るとアメ横の喧騒にいたります。
今回は春日通りを東方向・右へと進みましょう。
ちなみに、ここ御徒町は、将軍の警固を担当した御徒歩組の小身旗本が多く住んでいたところです。
春日通りを100mほど進むと、上下二段に道が走る台東4丁目交差点に到着しました。
目の前の高架上を走るのは首都高1号上野線、下を走るのは国道6号線・通称昭和通りです。
柳川藩上屋敷を歩く
昭和通りを渡って、さらに東へ進んだ最初の信号がある交差点、この北角が上屋敷の南西隅に当たります。
屋敷の敷地は、ここから更に東へ400mほど広がっていましたが、まずは交差点を北に進み、正門跡を目指しましょう。
北に向かって80mほどで、最初の信号のある交差点に到着しました。
実はこの交差点が上屋敷の正門付近にあたっているのですが、痕跡らしきものは見当たりません。
この交差点で東方向・右折して進みます。
正門をくぐったことになるのですが、ここは御殿のあった場所、まさにここで政務が行われていたのでしょう。
さらに東へと進んで二つ目の交差点を北に曲がりましょう。
このあたりからは、柳川藩藩主と家族が暮らした屋敷だったのでしょうか、残念ながらやはり痕跡は残っていません。
西町太郎稲荷神社
北に曲がって次の丁字路を東方向に右折すると、小さな祠がみえてきました。
これが西町太郎稲荷神社、かつての藩邸の守り神です。
この西町稲荷神社は、社内に設置された銘板によると、「立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として同邸内(柳川藩邸)の現在地に建立された」とあります。
ここで立花家の系図を見返すと、みほ姫とは、立花宗茂の生母で斎藤鎮実の姉、仁志姫のことでしょうか。
こうして藩邸の鎮守としてまつられたものが、現在は町の鎮守として大切にされているのです。
西町公園
西町稲荷神社を出て、丁字路を北方向・左手に曲がり進みましょう。
少し広い西方向への一方通行となっている道に出てきました。
この道が上屋敷の北端で、屋敷は東の清州橋通り付近にまで及んでいたのです。
この道を渡ってさらに北へ1ブロック進むと、西町公園に到着です。
ここで休憩がてら、柳川藩上屋敷と柳川伯爵下谷邸についておさらいしておきましょう。
柳川藩下谷御徒町上屋敷
『江戸幕藩大名家事典』「武家屋敷名鑑」によると、元禄8年(1695)以降、幕末に至るまで上屋敷は下谷御徒町に置かれ、その規模は安政2年(1855)で16,249坪3合となっています。
この辺りは大名屋敷が立ち並ぶことから、「下谷大名小路」と呼ばれることもあったようです。
その様子は『台東区史』によると、
「大名屋敷は敷地周囲を長屋や塀が取り囲み、その中に御殿が立った。御殿は当主やその家族の生活の場であり、藩の役所であった。長屋には家臣たちが住み、集団居住を行っていた。」
これに加えて、柳川藩邸は周囲を大きな堀に囲まれたうえ、立派な塀で囲われていたといいます。
藩邸の具体的な構造がわかる資料には出会えませんでしたが、各種資料からみて、その西側部分に御殿、東側部分に家臣たちの長屋が置かれていたようです。
ここまで柳川藩下谷御徒町上屋敷跡を歩いてみてきました。
そこで次回は、さらに詳しく柳川藩上屋敷についてみていくことにしましょう。
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