前回みたように、宗茂たちの活躍で、両軍の主力が激突した碧蹄館の戦いは、日本軍の大勝利に終わりました。
しかし、朝鮮出兵はまだまだ終わりません。
今回は碧蹄館の戦い後の宗茂をみてみましょう。
和平協議
碧蹄館の戦いでは、明軍は6,000人ともいわれる戦死者を出す大打撃をうけました。
さらに自らが負傷しただけでなく、信頼していた家丁を失ったことで、明軍大将李如松は完全に戦意を喪失します。
勢いを失った明軍は、武力による日本軍撃退をあきらめて和平へと方針を転換しました。
日本軍も明軍に龍山の兵糧庫を焼かれるなど兵糧部不足に悩み、戦争継続が困難となっていましたので、石田三成と小西行長を中心に、明との和平交渉をはじめざるを得ませんでした。
晋州城攻防戦
さらに、文禄2年(1593)6月に行われた晋州城攻防戦にも立花・高橋軍は小早川秀包とともに参戦しました。
金千鎰率いる朝鮮軍7,000が籠城する晋州城を囲んだ日本軍4万3,000に対して、朝鮮軍5万が咸安に集結してけん制し、日本軍の進撃を止めたのです。
日本軍の先鋒を務めた立花・高橋・小早川の軍は咸安の朝鮮軍を撃退し、全州へ撤退させました。
日本軍は6月21日に晋州城を包囲し、翌日からは濠の水を南江に落とす工事がはじめられたのです。
宗茂の隊もこの普請に参加していました。
晋州城は29日に攻城がはじまると、加藤清正軍や黒田長政軍の活躍でその日のうちに陥落しています。
宗茂帰国
このあと、和平交渉がはじまって大規模な戦闘は止み、日本軍の半ばがようやく帰還しできたのです。
残る日本軍は、領有する朝鮮半島南部各地に11城7支城を築いて、支配の確立を目指すことになりました。
小早川隆景率いる軍勢は、加徳島城の築城が命じられ、宗茂と統増、小早川秀包、筑紫広門とともに、加徳島城の支城築城にあたっています。
その後、8月に小早川隆景に帰還が命じられるものの、宗茂たちは加徳島城にとどまりました。
そしてようやく9月には、宗茂たちにも帰朝命令が下り、一部の兵を残して帰国の途に就いたのです。
10月には伏見城で秀吉に拝謁し、この時に秀吉から、「日本無双の勇将」と激賞する言葉をかけられています。
火縄銃「墨縄」
碧蹄館の戦いのあと、朝鮮の日本軍の雰囲気がよくわかる宗茂の逸話が残されていますので、みてみましょう。
朝鮮出兵の陣中で、立花宗茂と黒田長政とのあいだで、弓矢と鉄砲の優劣をめぐって論争が起こりました。
実際にためしてみて、勝ったほうが相手の武器を取りあげることになったのです。
このとき、長政が持ち出してきたのは火縄銃の名品「墨縄」でした。
今の我々からみて、銃と弓では比べものがならないと思いがち。
しかし、火縄銃は発展途上の新型武器ですし命中精度はそれほど高くないうえに、長く使われてきた弓は、個人の技量で命中精度を上げることが可能、だからこその論争だったのでしょう。
論争の結末
ちなみに、「墨縄」銘の由来は、大工が直線を引くときに使う道具・墨縄のように、まっすぐ玉が飛ぶことによるそうです。
そして気になる対決の結果はというと。
なんと弓矢を支持した宗茂の勝ちとなったのです。
「墨縄」は、宗茂の手に渡ることになったのですが、のちの災いを心配して仲介する人があり、宗茂の弓矢を長政に贈ってことを収めたと伝えられています。
このとき贈られた火縄銃「墨縄」は、立花家に代々伝えられてきました。
この銃の裏側には「行きやらで 山じ暮しつ 時鳥 今一こゑの きかまほしかに」の和歌と、銃の銘「墨縄」の文字が彫り込まれています。
ここまで文禄の役についてみてきました。
日本と明・朝鮮連合との講和に向けた交渉の行方はどうなるのでしょうか。
次回は、朝鮮出兵の新たな展開をみていきましょう。
《今回の原稿は、『日本戦史 朝鮮役』『福岡県史』『福岡県の歴史』をもとに執筆しました。》
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