お正月と言えば鏡餅、そう思って飾っては見たものの、お正月明け処置に困ったことありませんか?
そもそもどうしてお餅を飾るの? このお餅はどうしたらいいの?
じつは結構いい加減、地域や地位・生業によって違っているのが面白いんです!
知ってるようで案外知らない こんな疑問の数々を、歴史を見ることで解決していきたいと思います。
【鏡開き 目次】①鏡開きとは? 仕事始めの伝統行事 / ②鏡開きで雑煮を作ってみた
鏡開きとは?
鏡開きとは、正月に供えた餅をおろしたあと、これを割って雑煮にしたり善哉や汁粉などにして、家族など一同が食べる行事です。
鏡割り・カガミナラシ・イワイオロシなどともいう地域もあります。
かつては正月に供えた鏡餅を割って小豆粥に入れて食べる行事でした。
「開く」と言って「切る」や「割る」とは言わないのは、正月にあたって縁起をかついだものです。
またこれは刃物を使わずに手や木槌で割って食べるものだとされていました。
武家では甲冑に、女性は鏡台に餅を供えて、これを20日にさげて食べることで、武家の場合は「刃柄を祝う」、女性の場合は「初顔を祝う」という意味を込めたともいわれます。
鏡開きはいつ始まった?
この行事が始まったのは、織田信長・豊臣秀吉の時代とされています。
江戸時代の宮中では、正月10日~15日(あるいは11日~13日)の吉日を選んで行われていました。
具足開きとは?
一方、江戸幕府では、鏡開きを「具足開き」と呼んでいました。
この呼び名は、正月20日に徳川家康が戦で使用する鎧具足や陣刀などを祝ったことに由来しています。
じつは、三代家光までは正月20日でしたが、二代秀忠の命日が二十日だったので、承安元年(1652)からは正月11日に改めています。
具体的には、江戸城本丸御殿黒書院の床に、歯朶の甲冑・行平の太刀・国宗の陣刀・三原の陣羽織を飾り、そこに餅を供え、将軍は祝いの膳を食したのち、諸大名や上級役人などが御目見えし、餅と酒を下賜されるというものでした。
幕府がこの日を具足開きの日と定めたので、武家では鎧や兜などに飾られていた具足餅(鏡餅)を手や木槌で割って雑煮にし、家臣ともども食べるようになったのです。
蔵開きとは?
また、江戸の商家では、正月11日(京では4日)の蔵開き(仕事始め)とともに一年中の帳簿が作られました。
このとき、蔵の中に供えた鏡餅を割って、使用人ともども食べたのです。
このように、正月飾りの中心であった鏡餅を食べることは、正月の終了と新しい生活の開始を意味するだけでなく、仕事始めを祝い 大切な供物を下げ共食することで結びつきを強める意味があると考えられます。
鏡開きはいつする?
じつは、鏡開きが行われる日は、正月20日や15日や11日など様々です。
20日は二十日正月(送り正月・骨正月)と呼ばれ、大正月や小正月などの一連の行事が終わり平常の生活に戻る区切りとなる日でした。
また、15日は正月飾りが燃やされるどんとがあり、この火で鏡餅を焼いて食べるとするところが多くみられます。
本来正月三箇日に行われるものであった歯固めを、鏡開きの正月二十日、さらに氷餅や干餅にして保存して6月1日に行う風習が全国的にみられます。
どうして鏡餅と呼ぶの?
ちなみに、正月飾りに用いる大小の平たい円形の餅を鏡餅と呼ぶのは、その形が銅鏡を模したものに由来するからで、古くは餅鏡と呼ばれていました。
『源氏物語』初音に「歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取りよせて」とあるように、正月三が日に長寿延命を願って堅いものを食べる歯固めの行事が鏡餅の起源と考えられています。
正月に供えた餅は どうしてもカビてしまうからか、現在では真空パックのものを供えたり、鏡餅を供えるのをやめるところが増えているように思います。
確かにもったいないですが、伝統行事を残しておきたい気もするので、頭の痛いところです。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を参照しました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
参考文献:福田アジオ・新谷尚紀ほか編『日本民俗大辞典』1999 吉川弘文館、
加藤友康・高埜利彦ほか編『年中行事大辞典』2009 吉川弘文館、
日本風俗史学会編『日本風俗史事典』1979 弘文堂、
木村茂光・安田常雄ほか編『日本生活大辞典』2016 吉川弘文館、
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』1984 吉川弘文館
【鏡開き】①鏡開きとは? 仕事始めの伝統行事 / ②鏡開きで雑煮を作ってみた
トコトコ鳥蔵では、みなさんのメッセージをお待ちしています。ご意見、ご感想など、どんどんお寄せください!
トコトコ鳥蔵では、みなさんのメッセージをお待ちしています。ご意見、ご感想など、どんどんお寄せください!
コメントを残す