かつて浅草橋駅の駅前、にぎやかな町に福井小学校がありました。
戦後は小学校から中学校へと生まれ変わりますが、今回は小学校についてみていきましょう。
(グーグルマップは福井小学校跡地に建つヒューリック浅草橋ビルを指しています。)
所在地
明治35年(1902)12月20日(開校時)~昭和4年(1929)9月16日 東京市浅草区福井町6番地(現在の東京都台東区浅草橋1丁目22番地)
昭和4年(1929)9月17日~昭和22年(1947)3月(廃校時) 東京都浅草区福井町3丁目12番地(現在の東京都台東区浅草橋1丁目22番地)
旧校地から新校地へは、校地の中での移動です。
校名の由来
学校所在地の町名である福井町3丁目から校名が採られました。
福井町の町名は、元和4年(1618)から享保10年(1726)まで、この地に越前福井藩下屋敷が置かれていたことに由来します。
享保10年(1726)10月に屋敷地は公収されて、翌享保11年(1727)3月から町屋が開設され、享保15年(1731)に福井町と命名されました。(『東京府誌』『下谷浅草町名考』)
学校沿革
明治34年(1901)6月 浅草区議会において建設が決議される
明治35年(1902)5月4日 校舎着工
12月20日 校舎竣工と同時に開校、創立にかかり東京市福井尋常小学校と称す、設置場所:浅草区福井町6番地(旧福井3丁目8、9、10番地)
明治37年(1904)5月4日 修業年限二ヶ年の高等科を併設、東京市福井尋常高等小学校と改称。
明治41年(1908)4月1日 学制改正により尋常小学校に復したことにより、東京市福井尋常小学校と改称。校舎狭隘につき1・2年生を二部授業にする。
明治43年(1910) 校舎狭隘につき、1・2年生に加えて3年生も二部授業にする
大正3年(1914) 校舎増築により二部授業を廃止
大正12年(1923)9月1日 関東大震災発生、火災により校舎消失
12月 四教室の仮校舎建設、1・2・3年生、再び二部授業へ。
大正13年(1924)3月・大正14年(1925)1月 校舎増築
大正14年(1925)12月 当初の仮校舎屋上に二階建て二教室を増築
昭和2年(1927) 二部授業制廃止
昭和4年(1929)9月17日 鉄筋コンクリート造三階建新校舎竣工し、浅草区福井町3丁目12番地へ移転
昭和7年(1932)12月 総武線浅草橋駅開業
昭和16年(1941)4月1日 東京府東京市福井国民学校と校名を変更
12月8日 日米開戦
昭和19年(1944)7月1日 東京都設置にともない東京都福井国民学校と校名を変更
8月 福井小学校学童、宮城県伊具郡角田村へ集団疎開。疎開先は、長泉寺74名、遠藤屋旅館45名、大槻屋旅館47名の計164名。(『下谷浅草 小学校と児童の歴史』)
(廃校により校誌や記録が廃棄されて残っていないために、戦時下の様相はほとんど不明(『台東区史(近代行政編)』))
昭和20年(1945)3月9日 東京大空襲で校舎被災
8月15日 終戦
昭和20年(1945)11月 柳北小学校が浅草区南部総合教育所に定められて、柳北・福井・育英・精華・新堀の児童を集めて授業を再開
昭和21年(1946)3月 福井国民学校廃止
昭和22年(1947)4月 福井中学校が旧福井小学校校舎を利用して開設。当初は同校舎に都立浅草高等女学校が同居(昭和24年3月転出)(以上『台東区史(近代行政編)』)
平成3年(1991)3月 福井中学校が蔵前中学校との統合により廃校
平成21年(2009) 旧福井小学校校舎取り壊される
浅草 福井尋常小学校校歌
作詞 金子彦三郎 作曲 草川宜雄 (昭和10年12月6日文部省認可)
一、あきつみ神のおはします 千代田の宮の東(ひんがし)を
護る砦の一つぞと 築きて厳し福井校
二、隅田川原の肥沃(よもつち)に 代々を栄えし大銀杏
八幡の神の み武勲(いさほし) 仰ぎて剛く生い立たん
三、物は変われど皇祖神(すめがみ)の 代より承け来し至誠こそ
萬代(よろずよ)照す世の光 いざや磨かん諸共に
今回は浅草橋駅前にあった福井小学校についてみてきました。
次回も引きつづき福井小学校を見てみましょう。
コメントを残す