天童藩貧乏脱出大作戦・広重とコラボ【維新の殿様・織田家出羽国天童藩(山形県) ⑦】

前回は財政危機にもかかわらず、織田家が天童に引っ越して天童藩が誕生するところをみました。

もう待ったなしの藩政改革、はたして天童で藩財政の立て直しは成功したのでしょうか?

貧乏脱出計画その1・歌川広重とのコラボ

信学が藩主となって間もないころのことです。

「歌川広重」(『肖像 二之巻』野村文紹、国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「歌川広重」『肖像 二之巻』野村文紹、国立国会図書館デジタルコレクション】

長く江戸留守居役を務めた家老の吉田専左衛門は、鹿津部真顔(北川喜兵衛)について狂歌を学んで一家をなすまでになっていました。

そんななか、浮世絵で名高い歌川(安藤)広重もまた狂歌を好んでいたことから知り合って、深く交流するようになります。

ご存じの通り天童藩の財政難は深刻でしたので、専左衛門は広重に藩の苦境を訴えたところ、広重が快諾して作品を提供してくれることになりました。(『三百藩家臣人名辞典』)

天童藩は、さっそく三十両の献金で二副対、五十両で三副対の広重の絵を贈るという条件で献金を募ったのです。(『物語藩史』)

前回にみたように、天童の町には商業の発達によって富裕な商人が次々と誕生していましたので、専左衛門はこれらの富裕層をターゲットとしての試みでした。

この専左衛門の狙いはズバリ的中して、藩のためになるうえに江戸で一番の人気画家の作品が手に入るとあって希望者が集まり、結果として贈られた絵は二百幅を超える盛況ぶりで、藩は三千両を超える献金を集めることに成功したのです。(『物語藩史』)

「東海道五拾三次之内 日本橋」(歌川広重、天保4年 足立区立郷土博物館)の画像。
【「東海道五拾三次之内 日本橋」歌川広重、天保4年 足立区立郷土博物館 】

広重のねらい

ではなぜ広重は専左衛門に力を貸したのでしょうか?

広重は天保4年から保永堂版「東海道五拾三次」55枚を発表し、すでにその名声は確立していました。

天童藩に作品を提供したころにもその人気は衰えるところを知らず、「木曾海道六拾九次」(1837)「名所江戸百景」(1856~58)と、ヒット作を次々と飛ばしていたのです。

もちろん、広重が天童藩や専左衛門に同情したということもあるのでしょうが、さらにもう一つ、広重にとって大きなメリットがありました。

天童藩は献金の返礼品に送ったのは、広重の版画作品ではなく肉筆画だったのです。

藩としては、版画では単価が安く返礼品に見合わないと考えて肉筆画を依頼したのでしょう。

いっぽう広重にしてみると、彼の名声はあくまで浮世絵作家としてのもの、肉筆画を製作する画家たちよりも当時は一段下にみられる存在だったのです。

「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」(歌川広重、安政4年 足立区郷土博物館 )の画像。
【「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」歌川広重、安政4年 足立区郷土博物館】

広重としては、もちろん大量の、しかも安定した注文が入るという経済的メリットもありますが、浮世絵作家から画家へのステップアップになることをねらって協力したのではないでしょうか。

そして広重作の肉筆画は「天童広重」とよばれ、現在も村山郡内に数多く大切に守られています。(『藩史大辞典』)

「天童広重」の成功

こうして広重とのコラボ「天童広重」は三千両を集める大成功となったわけですが、このことは二つの意味を持っていました。

ひとつは、すぐれた絵画作品が多数持ち込まれたことで、江戸の最新文化がダイレクトに天童へと伝わったことです。

そしてもう一つは、天童藩に藩政改革の原資ができたことです。

残念ながら、専左衛門の募金策は一度きりしかできない策ですし、藩の負債全体から見れば三千両は微々たるものであるのは事実。

しかし、二宮尊徳が設ける報徳金が千両規模であることを考えると、三千両はやりようによっては十分な金額といってよいでしょう。

つまり、この資金を使って行う次の一手にかかってくるのです。

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【ベニバナ(Wikipediaより)】

貧乏脱出計画その2・紅花専売

出羽国村山郡は、紅花の産地としてその名を轟かしていました。

紅花の花弁からとれる赤い色素は、「紅」と呼ばれ、古くから薬品、化粧料、画料、染料として重用されてきました。

江戸時代後期には、友禅などの華やかな衣装や、口紅や頬紅など化粧品として需要が高まっていたのです。

そして栽培に気候が適していた山形県、なかでも村上郡産の「最上の紅花」が最高品となり高値で取引されるようになり、地域の重要産業に成長するとともに、農家にとっては貴重な現金収入減となったのです。

この紅花は、もちろん天童領内でも多くつくられていましたので、安政2年(1855)4月から藩は非常の決意をもって制度導入にあたるとともに、領民にも強く協力を求めたのです。(『物語藩史』『藩史大事典』)

窪俊満(1808)、大英博物館) の画像。
【江戸時代後期の化粧のようす、赤いお椀が口紅です。 (窪俊満、1808 大英博物館)】

紅花専売のゆくえ

でも、ちょっと思い起こしてください。

嘉永元年(1848)には領地交換により、すべての領地が天童周辺に集まったとはいえ、村々は山県藩領・蝦夷松前藩領・幕府領などがモザイク状に入り交じりって分散状態で、領国形態をなしていません。(『地名大辞典』)

なかには複数の領地が入り混じる「相給」の村がいくつもあったりしますので、天童領でとれた紅花だけを囲い込むことは、技術的に不可能といえるでしょう。

「もし他領に売り払えば、本人を厳罰に処すのはもちろん、村の三役や組合まで咎がおよぶ」などと脅したところで、生産者に多大な犠牲を払わせる制度が導入できるはずもなかったのです。

「御身帯向きの御基相立て、御勝手道御引直しに相成」と意気込んでかかりましたが、中止に追い込まれて完全な失敗に終わったのです。(『物語藩史』)

こうして本命の改革が完全に失敗して、財政的に破綻状態となった天童藩。

はたしてどうやって立て直していくのでしょうか。

次回は、天童藩のとった次の施策を見てみることにしましょう。

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