前回みたように、紅花専売に失敗してもう後がない財政危機に対して、今回は天童藩が放った次の一手をみていきましょう。
藩校養正館設立
藩の困窮は家臣の俸禄を借り上げる引高制を常態化させて、もともと俸禄の低い家臣の多かった織田家家臣団の士気を著しく低下させたのは言うまでもありません。
これに対して信学は二つの手を打ちました。
まず、文久2年(1862)に、明和事件の処置で下げられた家格の復旧を幕府に願い出たのです。
たしかに、上野国小幡藩時代には織田信長に由来する高い家格が藩と藩士の誇りでしたので、これを取り戻そうと考えたのでしょう。
成功すれば家臣の士気が上がるばかりでなく、藩主としてもうれしい限りだったのでしょうが、幕府がこれを許すはずはありませんでした。(『全大名家事典』『三百藩藩主人名辞典』)
それならば、というわけではないでしょうが、翌文久3年(1863)6月に、天童陣屋郭内に藩校養正館を設立したのです。(『藩史大事典』)
なんとかして藩士の士気をあげたいと考えたのでしょうが、これで藩財政が改善することはありません。
年貢前納制の導入
そして、もう一つが年貢前納制の導入です。
収穫に応じて年貢を納めるのではなく、植え付けるよりも前に年貢を納めるという信じられない制度ですが、なぜこんな制度を導入したのでしょうか?
その経緯をみてみましょう。
ここまで見てきたように、天童藩は慢性的な歳入不足の財政危機にありましたので、年貢の取り立てはことのほか厳しかったのは言うまでもありません。
ですから、年貢は五ケ年間の定免と定めていましたが、この切り替えのたびに年貢の割合を増やすというひどい状況でした。(『物語藩史』)
ちなみに、定免あるいは定免法とは、江戸時代の徴税方法のひとつで、過去数年間の平均年収を基準にして一定期間の年貢を豊作・凶作にかかわらず定額にする方式で、領主が収入増大を図りつつ安定的な収入を得る効果がありました。
九代信学に代替わりした天保7年(1836)は天保の飢饉の真っただ中、飢えに苦しむ農民たちに対しても容赦なく、定免を願うなら年貢を増やせと命じ、そうでなければ検見取にすると脅しをかける始末。(『物語藩史』)
検見あるいは検見法とは、収穫高に応じて年貢を決定する徴税方法で、定免法導入前に一般的だった方法です。
通常は、内見、役人が行う小検見、そして代官が行う大検見の順で行われて非常に煩雑なうえに役人の接待やワイロなどの支出も多く、農民からみて避けたいものでした。
反発を恐れてか、領民の締め付けが強められて、天保年間から安政年間にかけて、しばしば厳しい倹約令を出しています。(『藩史大辞典』)
その後、さらなる藩財政の悪化に伴って、年貢を金納制に改めただけではものたりず、ついには領内全村で毎年一千四百両を、その年の正月から五月までに前納するよう命じたのです。(『物語藩史』)
こうして万策尽きた感のある天童藩、このまま滅亡してしまうのでしょうか?
いえいえ、ここに最後の切り札と見いうべき一人の逸材が登場するのです。
吉田大八
吉田大八は天保2年(1831)に吉田荘左衛門守寛の嫡男として生まれました。
名は守隆、通称が大八です。
15歳で家督を継ぎ、その後江戸に出て安積艮斎について儒学を学び、窪田伊織について兵学を修めました。
万延元年(1860)5月から半年にわたって関東信越地方を歴遊して数々の人物と交遊し、天下の形勢について認識を広めています。(『三百藩藩士人名辞典』)
出仕してからは大目付、武具奉行、軍事奉行兼養正館督学へと進み、34歳で用人となってさらには中老に抜擢されたのです。
栄達が早ければねたまれるのは世の常、武具奉行在任中には讒言に会い、一時牢に入ったことさえありました。(『物語藩史』)
藩校養正館督学、つまり藩校の監督する任についていたこともあり、若い藩士たちから慕われていたこともまた、一部年長者の反感をかう材料になっていたようです。
しかし何といっても天童藩には藩政改革が焦眉の急ですから、大八は、まずもって藩士の窮乏を救う策を講じる必要に迫られていたのです。
しかし、なぜ藩士は窮乏していたのでしょうか?困窮ってどれくらい?ということで、ちょっとおさらいしておきましょう。
藩士の窮乏
織田家は上野国小幡を居所としていたころからすでに藩財政は悪化していましたが、明和事件に連座して転封となってからはさらに輪をかけて財政危機となったのは前に見たところです。
そんななかでも、天童への引っ越し費用が藩財政に重くのしかかり、領民からの徴税も年貢の金納から前納制の導入と限界まで引き上げてきたのでした。
切り札の紅花専売制も失敗して増収の路はなくなり、支出を切り詰めるばかりとなっていたのです。
そんな状況ですので、家臣の俸禄を借り上げる引高制もすでに小幡時代から導入されており、しかも引高の率はどんどん上がってついに六割にも及んだことで、家臣の困窮は目を覆うばかりとなったのです。(『藩史大辞典』)
給料60%カット、しかも藩は借り上げと言いつつ返すつもりはまるでなし、もともとが高かった家格を維持する人数合わせで家臣数が多い分、その多くが微禄ですので、こうなっては生活することもままならない状況となっていました。
さすがに生活できないくらいの困窮とあっては、すっかりやる気がなくなるのも当たり前ですね。
天童藩最後の切り札、吉田大八はこの状況をどう変えるのでしょうか。
次回は大八の秘策、将棋駒製作業についてみていきましょう。
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