前回みたように、関ケ原で西軍についた宗茂は、柳川城を失い浪々の身となりました。
そこで今回は、宗茂が柳川に帰還するまでの苦難の道のりをみてみましょう。
浪々生活
宗茂は柳川城を明け渡すと、加藤清正を頼って肥後国玉名郡高瀬に館を構えて居住しました。
その後、家臣を清正に預けて浪々の身となります。
慶長7年(1602)春には京の都と畿内各地を遊歴していたのです。
そんななか、この年の10月17日、立花家改易後は肥後国玉名郡腹赤村、現在の熊本県玉名郡長洲町に暮らしていた妻の誾千代が、夏から罹った病のために、34歳で亡くなってしまいました。
そして慶長8年(1603)冬、江戸に出て、高田宝禅寺に寄宿します。
棚倉時代
本多正信の推挙で徳川秀忠に拝謁し、慶長9年(1604)1月、棚倉領内南郷に5,000石を与えられて旗本となり、書院番頭につきました。
慶長11年(1606)には、大御所家康から堪忍領として陸奥国棚倉1万石を与えられて、再び諸侯に列して棚倉藩を立藩しています。
さらに、慶長15年(1610)7月には2万石を加増されて、あわせて3万石を領し、陸奥国東白川郡赤館城主となりました。
しかし築城することはなく、陣屋を大長屋と称していたのです。
大坂の陣
大坂夏の陣では、二代将軍徳川秀忠のもとで、軍師兼警護役として出陣、大野治房軍の動向をみごとに予見して、秀忠軍の進退を助言しています。
また、豊臣秀頼が出陣しないことを予言したり、毛利勝永の軍勢を駆逐する働きをみせました。
柳川へ帰還
大阪の陣に参戦して戦功をあげ、元和6年(1620)11月、筑後国山門・三池の二郡と、上妻・下妻・三瀦三郡の一部の、10万9,600石余を与えられて、旧領柳川へ復帰しました。
その後、二代将軍秀忠の相伴衆となり、茶の湯や能楽を嗜み、寛永14年(1637)4月に致仕したのです。
しかし、この年に起こった島原の乱では、将軍家光の命により、隠居の身ながら養嗣子忠茂とともに出陣し、武功をあげました。
そしてこの年の10月には、剃髪して立斎と号しています。
寛永19年(1642)11月25日、江戸柳原の藩邸で没しました。
こうして関ケ原で西軍について改易された宗茂は、徳川家のために懸命に働いて、ようやく柳川への帰還がかないました。
関ケ原で西軍についた大名の中で、改易後に旧領に復帰したのは宗茂のみ。
これは、徳川家が宗茂の献身をそれだけ認めたといってよいでしょう。
ところで、立花家が柳川に復すまで、柳川はどうなっていたのでしょうか。
次回は、関ケ原後に入封した田中吉政の時代をみてみましょう。
《今回の記事は、『旧柳川藩誌』『三百藩藩主人名辞典』『全大名家事典』『国史大辞典』にもとづいて執筆しました。》
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