前回は熊野の廻船業についてみてきました。
熊野と上方や江戸を結ぶ廻船業は、じつは熊野川を使って山々の産物を新宮に集積する舟運交通と深くつながっているのです。
そこで今回は、熊野川の舟運と新宮の産業についてみることにしましょう。
熊野川の舟運
熊野(新宮)川は、支流の北山川も合流して豊富な水量を誇り、広大な流域の村々で産する薪炭・木材などの林産資源は、筏あるいは川舟で河口まで運ばれていました。
また、米穀など山間部の村々で不足するものが川を上り、遠く大和国十津川まで運ばれていたのです。
このため、川沿いの村々には多数の川舟があり、物資の運搬はもちろん、人びとの交通機関としても利用されました。
さらに近世に入って庶民の熊野詣が盛んになると、熊野本宮と新宮を結ぶ熊野川の舟運の便がしだいに定着していったのです。
下り船は1日で新宮に着くのに対して、上り船は順調に行って2日かかったといいます。
また、熊野川の筏下しは、深い山が続いて陸路が発達しにくい地形であることから、熊野地方の交通輸送の役目も担うようになりました。
いっぽう、新宮町の伝馬所は、馬町の竜鼓橋付近に設けられて、馬庄屋をおいて人馬の調達や管理を行っています。
この馬町は参詣客などで大いににぎわい、旅籠屋が開業するようになったのでした。
また、幕末になると、熊野速玉大社前に坊が立ち並んで門前町を形成し、大いににぎわいました。
川原町
ここまで見たように、熊野川上流から木材や薪炭といった山の産物が大量に河口の新宮まで運ばれたので、廻船業が発達しました。
さらに、この河川交通によって、熊野川にかかわって生活している人々が集まって、新宮川の川原には川原町が出現し、大いににぎわったのです。
この川原町には、飯屋・宿屋・風呂屋・鍛冶屋・八百屋・舟具屋など、いろいろな店が軒を連ねていました。
捕鯨
また、捕鯨の本場・太地に近いこの地域の特徴的産業である捕鯨についてみてみましょう。
慶長11年(1606)にはじまったと伝えられる太地の捕鯨業は、延宝5年(1677)に太地浦で網取式突取法が考案されたことが画期となって、大いに盛んとなりました。
これは、それまで捕らえることができなかった種類の鯨を捕ることができるようになったからです。
井原西鶴は『日本永代蔵』のなかで、「七郷の賑ひ、竈の煙立つゞき」「工夫をして、鯨網をこしらえ、見つけ次第に取、損ずる事なく、今浦々にこれを仕出しぬ」「檜木造りの長屋弐百余人の猟師をかゝえ、舟ばかりも八十艘」と網取法により捕鯨業が発展し。太地が栄える様子を記しています。
この太地は、捕鯨法を伝えるのにも力を入れていました。
そして新宮でも、三輪崎に鯨方役所を設置して経営していたのです。
新宮鍛冶
中世の終わりになると、入鹿鍛冶と三輪崎鍛冶が合流して新宮鍛冶が誕生したとされています。
三輪崎鍛冶は主に鏃を製造することで知られていました。
寛永5年(1628)には、三輪崎村で家数278軒のうち21軒が鍛冶屋であったというから驚きです。
やはりこの頃の三輪崎鍛冶も鏃専門で生計を立てていましたが、幕末になると新宮荻野に精錬所ができたため、ここに集められて、三輪崎鍛冶は衰退していったのです。
こうして誕生した新宮鍛冶は、軍事上の理由から特に重視されて、「新宮鍛冶株」の制度が設けられて一種の専売制が布かれるとともに、仲間の掟が定められて厳格に守られていきました。
後に見るように、水野忠央が領主の時代には、軍艦第一・第二丹鶴丸を建造した時には、彼らが中心的役割を果たすとともに、大砲の鋳造までも行っています。
今回まで新宮とはどのようなところか、町と産業の歴史を見てきました。
そこで次回は少し角度を変えて、新宮に伝わる伝説からその風土を見てみましょう。
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