水野重吉の謎【紀伊国新宮水野家(和歌山県)49】

前回みたように、嫡男忠宜の事故死により水野男爵家初代忠幹は失意のうちに亡くなりました。

成人した男子は他家へ養子に出したうえ、女子もそれぞれ嫁いでいます。

そこで今回は、この危機的状況の中で、水野男爵家の家督を継いだ重吉についてみてみましょう。

新宮水野男爵家二代・水野重吉

明治35年(1902)、嫡男忠宜につづいて当主の忠幹も亡くなった水野男爵家は、家督をめぐって混乱をきたします。

というのも、嫡男忠宜が壮健であったため、男子の多くが他家に養子に出ていたのです。

そこで、明治31年(1898)3月1日生まれで若干4歳の忠幹庶子で八男の重吉に襲爵させることとしました。

こうして忠幹が死去して1か月後の明治35年(1902)5月30日にわずか4歳の重吉が襲爵します。

水野男爵家鎌倉西御門邸跡付近、昭和24年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-R582-134〔部分〕)の画像。
【水野男爵家鎌倉西御門邸跡付近、昭和24年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-R582-134〔部分〕)  水野男爵家が邸宅をかまえた西御門町は、鶴岡八幡宮(画面左下)の裏手東側にある谷で、田畑も残る静かな環境でした。」

重吉の暮らし

重吉は病弱だったようで、父忠幹が病気療養していた神奈川県鎌倉郡鎌倉町西御門38番地から離れることはありませんでした。(『華族銘鑑』秀英舎 編(秀英舎、1902))

『人事興信録初版』(人事興信所、1911)明治36年4月刊によると、重吉は母の鈔子(嘉永3年(1850)1月生、子爵三宅康寧姉)、伯母のなみ(天保8年(1837)3月生)、さらに常(明治16年(1883)2月生)と富子(明治21年(1888)3月生)、千代(明治24年(1891)7月生)という三人の姉たちに囲まれて暮らしていたのです。 

川口武定男爵(Wikipediaより20220223ダウンロード)の画像。
【川口武定男爵(Wikipediaより) 重吉の姉・富子の義父で海軍で活躍。二男で夫の武夫も海軍に入りました。】

姉たちの結婚

『人事興信録 3版(明治44年4月刊)』をみると、常は東京府士族森英、富子は男爵川口武定二男武和、千代は神奈川県士族水野勝昌養子畝勝と嫁いだうえ、伯母のなみも引っ越して、母の鈔子と親子二人で暮らしていきました。

またこのころ、従姉違ハナ(明治8年(1875)3月生)が香川県知事鹿子木小五郎に嫁いでいます。

鹿子木小五郎(『和歌山県会史』和歌山県 編集・発行、大正11年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【鹿子木小五郎『和歌山県会史』和歌山県 編集・発行、大正11年 国立国会図書館デジタルコレクション  内務官僚として活躍の後、裁判官などを歴任しました。】

水野勝昌は、長男忠宜が八甲田山雪中行軍遭難事件で犠牲になったおりに、二男直とともに青森に駆けつけた人物で、新聞によると水野男爵家家扶とされていた人物です。(第47回「「八甲田山」の真実・水野男爵家編」参照)

また、先代忠幹の事業失敗により家財が大幅に減少したうえに、嫡男と当主が相次いで亡くなった影響か、娘たちの嫁ぎ先に華族は少ない印象を受けます。

このことも水野男爵家の地位が相対的に下がった証拠なのかもしれません。

重吉の半生

重吉について、学歴はおろか、ほとんど彼に関する情報は得られませんでした。

このため、収入源などは不明で、その生涯は明らかではありません。

そして大正9年(1920)1月22日には母の鈔子もなくなり、重吉は独りで暮らすことになります。

大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災では、重吉が寄寓していた高松寺も倒壊して、宮城県に移転してしまいました。

震災を無事に過ごした重吉は、その後も鎌倉町西御門38番地で暮らしましたので、この場所に邸宅を新築したとみられます。(『人事興信録 第8版(昭和3年)』)

人事興信録や華族名簿にまったく動静が記されていないことからみて、重吉は病弱で、長きにわたって邸宅で静養していたのかもしれません。

そして重吉は、昭和3年(1928)7月4日に鎌倉で没しています。

重吉は婚姻することもなく、子もいなかったことから、家督は昭和3年(1928)9月1日には重吉の兄で忠幹の七男・武が継承しました。

今回は悲劇が続いた水野男爵家の家督を継いだ水野男爵家2代重吉についてみてきました。

次回は、重吉の跡を継いだ忠武についてみてみましょう。

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