前回は、新宮水野家越中島中屋敷跡を歩いてきました。
そこで今回は、越中島公園で休憩しながら、越中島と新宮水野家越中島中屋敷についておさらいしましょう。
越中島と古石場
まずは越中島についてです。
越中島は、明暦万治(1655~1661)のころ、播磨国姫路藩主榊原越中守の抱屋敷となったことからその名が付けられたといいます。
しかしその後、風浪のために島地が崩れたことから上地となって、石材置き場として使われていました。
近くにある古石場の町名は、これに由来しています。
寛文2年(1662)には、この土地を大島町の代地として賜給したのですが、風雨のたびに海水が侵入するため、ここに家を建てるものもありませんでした。
そして元禄期(1688~1704)に隅田川を底ざらいしたときに、その浚渫土をこの地に盛ったうえに護岸を行って、ようやく元の地形に回復することができたといいます。
正徳元年(1711)には幕府がこの土地を御家人屋敷として賜給したときに、越中島の名がつけられました。
さらに享保6年(1721)には因幡町の商人が上願して旧石置き場を築き立てて町家を開き、この場所を越中島借地と称しましたが、人びとは古石場と俗称したのです。
その後、海岸を埋め立てて4万坪におよぶ広大な町地となり、天保13年(1842)には諸町や武家地となりました。
新宮水野家拝領越中島中屋敷
新宮水野家に中屋敷が下賜されたのは、『東京市史稿 市街編49』によると、弘化2年(1845)9月19日のことでした。
この年の8月7日に、新宮水野家の牛込喜久井町の中屋敷と、大垣藩戸田采女正深川越中島中屋敷とを「切坪相對替」を願い出て、同年9月19日に許可されたとあります。
これにより、同年9月23日に、新宮水野家が拝領していた中屋敷1,972坪のうち、1,034坪余を戸田家に渡し、戸田家が拝領していた越中島の中屋敷5,513坪余を新宮水野家に引き渡したとあります。
こうして新宮水野家は、喜久井町の中屋敷と引き替えに、越中島に中屋敷を構えることになったのです。
屋敷面積の謎
『武家屋敷名鑑』によると、安政2年(1855)に新宮水野家の越中島中屋敷は5,513坪とされています。
いっぽう、『本所深川會圖』戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永5年)に描かれる屋敷はみたところ、5,513坪よりも明らかに広く描かれています。
また、『南紀徳川史』には、この越中島藩邸の面積を4,909坪としています。
なぜこれほど藩邸の面積がまちまちなのでしょうか。
この謎を解くために、『分間懐宝御江戸絵図』(清原屋茂兵衛、安政4年)をみてみましょう。
ここには「水ノトサ」下屋敷の南、海側に「榊原式ブ」の下屋敷があるのがわかります。
この「榊原式ブ」とは、式部太夫に任ぜられていた越後高田藩榊原家のこと。
じつは切絵図の記載は、この榊原家の下屋敷を忠央が譲り受けて、みずからの屋敷と合わせて使用していたことによるのです。
『南紀徳川史』によると、榊原家下屋敷の広さは3,372坪、またこれに接して1,627坪の抱屋敷があり、水野家越中島中屋敷は、合計で9,909坪の広さがあったと記しています。
ここで気になるのが、新宮水野家が交換で得た5,513坪と榊原家から譲ってもらった下屋敷の3,372坪と抱屋敷1,627坪を合計すると、10,512坪となり、計算が合いません。
なぜ面積が異なっているのでしょうか。
ひとつには、屋敷を隔てる水路の面積の扱いが異なる可能性も考えられます。
また、大名の格付けから1万坪を越えないように配慮したのかもしれません。
あるいは次回みるように、存続期間が弘化2年から嘉永6年(1845~1853)と短かったのも影響しているのでしょう。
ここまで新宮水野家越中島中屋敷についてみてきました。
そこで次回は、藩邸内に設けられた洋式調練場についてみてみましょう。
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