女子教育家・二階堂トクヨが亡くなった日
7月17日は、昭和16年(1941)女子教育家の二階堂トクヨが亡くなった日です。
大河ドラマ「いだてん」で寺島しのぶさんが演じて話題となった、彼女の波乱に満ちた生涯をみてみましょう。
二階堂トクヨ略歴
二階堂トクヨ(にかいどう とくよ)は、明治13年(1880)12月5日、宮城県志田郡三本木村、現在の宮城県大崎市で生まれました。
彼女の生涯は、Wikipediaで詳しく描かれていますので、ここではおおまかな歩みを振り返ってみましょう。
苦労の末、福島県尋常師範学校女子部へ入学し、長沼智恵子、のちの高村智恵子と知り合い永く交遊することになります。
明治37年(1904)女子高等師範学校文科を卒業し、石川県第一高等女学校に赴任しました。
ここで、専攻の国語ではなく体操を担当したことをきっかけに、体育教育の道へと進みます。
明治40年(1907)高知県師範学校に移動すると、米国留学から帰国した井口阿くりと交流し、その後任として明治44年(1911)に東京女子高等師範学校助教授となりました。
ここで教授を兼任していた永井道明の支援を受けて、大正元年(1912)文部省留学生に任じられてイギリスへ渡ります。
キングズフィールド体操専門学校で創立者のオスターバークに師事し、大正4年(1915)に帰国しました。
東京女子高等師範学校教授兼第六臨時教員養成所教授に就任するものの、教育方針をめぐって永井と対立するようになったのです。
そこで、東京女高師を辞して、大正11年(1922)には東京代々木山谷に二階堂体操塾、現在の日本女子体育大学を創設します。
二階堂トクヨは、わが国の女子体育における指導者育成に力を尽くし、指導書『体操通俗講話』を執筆しています。
昭和16年(1941)7月17日に胃がんのため死去、享年62歳でした。
二階堂トクヨのパラダイムシフト
二階堂トクヨの最大の業績は、日本女子体育大学設立により、日本における女子体育発展に多大な功績を残したことで、「女子体育の母」とも呼ばれ、称えられています。
また、日本で最初となる女子オリンピアン・人見絹枝をはじめ、8人もの女子オリンピックを育てました。
さらに、イギリス留学の成果としてイギリスで学んだスポーツの普及にも努め、女子のクリケットとホッケーは、彼女がはじめて日本へ紹介した事蹟も無視できません。
このように、二階堂トクヨは多大な業績を残しましたが、ここで注目したいのは、劇的なパラダイムシフトを二度にわたって行ったこと。
まずひとつ目は、明治37年(1904)に専攻科目を国語から体操へと変えたこと、二つ目はイギリス留学で180度体育の方針変更です。
女子体育教育の道へ
もともと小学校の8年間では体操、現在の体育の授業を受けたことがなかったうえ、学生時代を通じて体育の授業には全く関心がなかったといいます。
ところが、教師としてはじめて赴任した石川県第一高等女学校で、専攻の国語ではなく体操を担当したことをきっかけに、体育教育に目覚め、生涯の仕事と定めたのです。
この転換は、金沢で宣教師のミス・モルガンや、東京女子高等師範学校へと招聘してくれた恩師・井口阿くりとの出会いもあって、結果的にトクヨの指導力を飛躍的に向上させるきっかけとなりました。
こうして東京女高師では、井口阿くりと永井道明両教授の補佐を務め、スウェーデン体操を主体とする体操普及に努めることになりました。
ここで井口が結婚を機に退官することとなり、なんとその後任に指名されたのです。
もともと体育の専攻ではなかったトクヨが、いわば日本の体育教育のトップになるわけですから、激しい妬み嫉みを受けることになったのは当然のこと。
それでもトクヨが後継指名されたのは、その卓越した指導力があったからでしょう。
これは永井道明にとっても同じことで、トクヨがスウェーデン体操を主体とする体育教育を大いに普及してくれるものと考えていたからにほかなりません。
だからこそ、永井はトクヨのイギリス留学実現を後押ししてくれたのです。
ところが、4年におよぶイギリス留学で、トクヨは体育教育の位置づけや方針を180度変換します。
これにより、イギリス留学後には、留学への道を整えてくれた永井道明と決別して独自の道を歩むことになりました。
独自の道を歩むことになったトクヨは、資金難にもめげず、日本女子体育専門学校を設立・運営し、女子体育教育の発展に生涯をささげることになったのです。
考えることの重要性
いっぽうで、二階堂トクヨが生きた時代は、まさに戦争へ向かって日本が歩む時代でもありました。
恩師オスターバークがフェミニズム思想を背景とした体育教育を行っていたのに対して、トクヨが日本で導入したのは技術部分のみでした。
逆に、軍国主義を向かう日本で求められた「良妻賢母」を受け入れて、国家主義に染まった「軍国ばあさん」となっていくのです。
もともとトクヨには思想的背景が強くあったわけではなかったようですが、学校運営などで支援を得る必要があったからか、時勢に合わせるところがあったようです。
偉大な先覚者であった二階堂トクヨさえも「軍国ばあさん」に変えてしまうような世の中の空気があったのでしょう。
この一事をもってしても、思考を停止して時勢に迎合することが、いかに危険かがわかるのではないでしょうか。
(この文章では、敬称を略させていただきました。また、『日本女性人名辞典』『明治時代史大辞典』および日本女子体育大学Webサイト、「みやぎの先人集」宮城県Webサイト、Wikipediaを参考に執筆しています。)
明日(7月18日)
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