織田信長と相撲 相撲の歴史③

【大相撲】大相撲とは? [相撲の歴史]①相撲誕生と相撲節成立②鎌倉・室町・戦国時代の相撲③織田信長と相撲④大相撲の成立⑤近代の相撲 ⑥現在の相撲

歌川広重「曽我物語圖絵」(1845年頃 大英博物館)【部分】の画像。
【歌川広重「曽我物語圖絵」1845年頃 大英博物館【部分】 武士たちは陣中でも相撲を取ることがりました。】

15世紀には 京都文化に憧れる人々によって、相撲節の流れを受け継いだ相撲はブランド化して お金を払ってでも観たい見世物となりました。

こうして力自慢の者が集団を組んで「相撲のプロ」となり各地を巡業しはじめます。

これは、興行にあたって寺社の寄付を勧進するという名目で領主の許可を受けることが多いので、「勧進相撲」と呼ばれていました。

相撲が盛んになると、京都で有職故実や陰陽道などに素材を求めて吉田家などにより「相撲故実」というルールが整えられます。

相撲故実が整えられると、相撲興行のスタイルとルールが統一され、相撲の地位を大きく向上させることになりました。

相撲故実を整えた吉田追風の画像。
【相撲故実を整えた吉田追風  岡敬孝編『古今相撲大要』明治18年 攻玉社 国会図書館デジタルコレクション】

相撲の人気は巷で高まっていきましたが、かつて宮中行事・相撲節のような権威は失われたままでした。

この相撲に再び公的な性格を与えたのが織田信長です。

織田信長はたいへんな相撲好きで、「相撲中興の祖」ともよばれています。

「彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体でルタール(相撲)をとらせることをはなはだ好んだ。」【ルイス・フロイス『日本史』】 

「江都勧進大相撲浮絵之図」(勝川春章、大英博物館)の画像。
【「江都勧進大相撲浮絵之図」勝川春章、大英博物館】
「織田信長画像」(『愛知県史 第1巻』愛知県、1935 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「織田信長画像」『愛知県史 第1巻』愛知県、1935 国立国会図書館デジタルコレクション】

ところで、信長は相撲見物を好みました。

しかし、信長の出身地である尾張は相撲があまり盛んではなかったので、相撲に接したのは上洛以降のことと考えられていますが、上洛以後は相撲見物を大変好むようになりました。

なかでも天正6年(1578)8月に安土城で行われた相撲大会は盛大なものでした。

「相撲の事 戊寅三月廿九日、江州国中の相撲取三百人召し寄せられ、安土御山にて相撲をとらせて、御覧侯。此の中、廿三人撰相撲これあり。(以下略)」【太田牛一『信長公記』】

十返舎一九著 歌川国直画「相撲勝負附」(文政3年(1820)国立国会図書館デジタルコレクション) の画像。
【十返舎一九著 歌川国直画「相撲勝負附」文政3年(1820)国立国会図書館デジタルコレクション
相撲人の取る相撲は人気の興行でした。】

近江を中心に各地から相撲の巧者を集めて しばしば安土城で鑑賞し、優秀なものに褒美を与えたり家臣に召し抱えたりもしています。

さらには京都の御所でも天皇や公家を招いて「上覧相撲」を度々催しました。

天下人信長の庇護によって、再び相撲の権威は大きく高まることになりました。

またこれに倣って秀吉も信長と同様に「上覧相撲」を催しています。

徳川家康も相撲見物したことが記録に残っています。

秀吉と家康も相撲との接点がありましたが信長ほどの熱意は感じられません。

この文章を作成するにあたって以下の文献を引用・参考にしました。(順不同敬称略)

引用文献:小瀬甫庵『信長記』1622国立国会図書館デジタルコレクション、ルイス・フロイス著 松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』中公文庫200

大島建彦・大森志郎ほか編『日本を知る事典』1971社会思想社、日本風俗史学会編『日本風俗史事典』1979弘文堂、西山松之助・郡司正勝ほか編『江戸学事典』1984弘文堂、福田アジオ・新谷尚紀ほか編『日本民俗大辞典』1999吉川弘文館、小木新造・陣内秀信ほか編『江戸東京学事典』1987三省堂、石川弘義・有末賢ほか編『大衆文化事典』1999弘文堂、木村茂光・安田常雄ほか編『日本生活史事典』2016吉川弘文館、神崎宣武・白幡洋三郎・井上章一編『日本文化事典』2016丸善出版

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