前回まで言問橋がガイドブックでも押される名所となった秘密を見てきました。
今回はこの橋からのメッセージをみてみましょう。
前回見たように、復興局土木課長の田中豊が、これからの我が国では桁橋が主流になると予見したことが言問橋の設計に活かされました。
こうして、言問橋に当時としてはけた外れの巨大な鋼ゲルバー橋が採用されたのです。
そして現在、田中が予見したとおり、日本の橋は桁橋が最も標準的な構造になっています。
復興事業で飛躍的な進歩を遂げた我が国の橋梁技術は、長大な橋を造ることを可能にするとともに、日本中いたるところで桁橋を建設する状況を現出しました。
その中で、地盤に恵まれない場所で大きな橋を架ける場合には鋼ゲルバー橋が採用されるケースが多く、あちこちで似通った橋を見かけるような状況になったのです。
言問橋は今となっては どこかで見たような感じの地味な橋になったのですが、逆にいうと、時代の先駆けとなり現在を作り出した、我が国の土木史上、記念碑的な橋でした。
まさに普通=スタンダードを作り出した橋、普通の中の普通、普通の魁といえるのです。
「普通」の橋である言問橋ですが、決して普通ではない、そして絶対に忘れてはならない大切なことがあります。
昭和20年(1945)3月、米軍爆撃機B29による無差別爆撃が東京を襲いました。
下町一帯は火の海と化し、逃げ場を失った多くの人々が言問橋に逃げ込みます。
その後、周囲の町を焼き尽くす炎によって、橋の上は縁石が熱剥離を起こしアスファルトが溶け出すほどの灼熱地獄と化して、逃げ場を失った多くの人々が犠牲になるという悪夢のような出来事がありました。
現在、今戸側の橋の袂には、供養碑とともに当時の縁石の一部が保存されています。
私は言問橋に相対するとき、「普通っていうのは馬鹿にできない」という この橋からのメッセージを心でかみしめます。
そして、初夏の風に吹かれながら、「やっぱりフツーやん!」と、心からの敬意を込めたツッコミを、私はこの橋に入れずにはおれないのでした。
この文章を作成するにあたって以下の文献を参考にしました(順不同敬称略)。
また文中では敬称を略させていただきました。
石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』1977新人物往来社、伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』1986 鹿島出版会、紅林章央『東京の橋 100選+100』2018都政新報社、東京都建設局道路管理部道路橋梁課編『東京の橋と景観(改訂版)』1987東京都情報連絡室情報公開部都民情報課
次回は八幡橋(旧弾正橋)です。
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