前回は建築物としての白鬚橋の魅力についてみてきました。
しかし、この橋には一種の魔力ともいえる独自の魅力があるのをご存じでしょうか。
今回はこの橋が持つもう一つの側面に注目してみたいと思います。
関東大震災からの復興事業の終盤に、厳しい条件を克服して造られた白鬚橋ですが、結果的に、美しいアーチとトラスがうまくかみ合って、軽やかで美しく気品あふれるものになりました。
こうして実用と美観を両立させることに成功した設計者の増田淳は、自ら白鬚橋を「秀麗瀟洒」と誇る名橋が ここに誕生したのです。
この美しい白鬚橋ですが、前に見たように「水鳥の名所」という少し寂しい場所にそびえたつことになります。
そして、白鬚あたりの寂しく美しい風景は、多くの文人たちに愛されました。
例えば、歌川広重は「名所江戸百景 墨田河橋場の渡 かわら竃」(安政4年)で、煙の立ち上る、どこか寂しくもある、静寂が支配する風景を描いています。
白鬚橋のあたりは、雪や夕暮れなど、寂寥と静寂が支配する美しい景色が見られる名所だったのです。
このような場所でしたので、白鬚橋を眺めた時、私は言いようのないわびしさを感じるのに加えて、そのことがさらに、この橋の持つ気高さが逆に孤高の存在であることを際立たせているように見えて仕方ありません。
このような白髭橋の雰囲気をうまく作品に取り入れた林芙美子の作品を見てみましょう。
「りよと留吉が浅草を出たのはニ時頃であった。駒形の橋の見える方へ出て、河添いに白髭の方へ歩いた。ここが隅田川と云うのだろうと、りよは青黒い海のような水を見て歩いた。(中略)
りよは河風に吹かれながら河ぶちを歩きながら思い出しているのだ。白髭のあたりに水鳥が淡く群れ立っていた。青黒い流の上を様々な荷船が往来していた。りよはシベリアの良人のおもかげよりも、色濃く鶴石のおもかげの方が、はっきりと浮かんで来る。」【林芙美子『下町』】
また、次にあげる句も白鬚橋のイメージをみごとにとらえていると思います。
白鬚の橋のなかばや冬晴るる 章魚
なにより、白鬚橋にたたよう寂しい空気を見事にとらえたのが冒頭で見た藤牧義夫の『隅田川絵巻』なのです。
この白鬚橋の部分は『隅田川絵巻』の冒頭ですが、じつは最後に描かれたものだそうです。
このころ結核を患い余命が限られていた藤巻はまた、作品制作においても、所属する団体と方針が合わず悩んでいたとも言います。
すでに愛する母や父にも先立たれて天涯孤独ともいえる彼が、気高く孤高の白鬚橋の存在に共感したのでしょうか。
あるいは自らを白鬚橋の姿を重ね合わせたのに違いないと私は思うのです。
この作品を1935年頃に書き上げたあと、作品を友人に預け、藤牧はそのまま行方知らずとなりました。
そして、この天才版画家は今に至るまで見つかっていません。
私は白鬚橋を見るたびに孤高の版画家・藤巻義夫の後ろ姿を見る気持ちになるのでした。
この文章を作成するにあたって以下の文献を参考にしました。(順不同敬称略)
また、文中では敬称を省略させていただきました。
石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』1977新人物往来社、
伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』1986 鹿島出版会、
東京都建設局道路管理部道路橋梁課編『東京の橋と景観(改訂版)』1987東京都情報連絡室情報公開部都民情報課、
紅林章央『東京の橋 100選+100』2018都政新報社
次回は和倉橋です。
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