前回は明治維新における西大路(仁正寺)藩の栄光の時代を見てきました。
その栄光に陰りが見え始めていましたが、大事件の発生によって市橋家は急速に没落していくことになります。
今回は、市橋家に起こった悲劇のはじまりを見ていくことにしましょう。
市橋家柳原邸宅
さて、廃藩置県で旧藩主が東京に召集された際に、市橋家は旧藩時代の神田柳原の上屋敷の一部を下賜されました。
亀戸の下屋敷ではなく上屋敷を選んだ理由は、「本所邸は便宜悪しきにより神田の邸に移住することゝなれり」(『蒲生郡志』4)と、ここは現実的です。
いっぽう、下屋敷は上地されて、その大半が農地へと変わりました。
こうして、元和3年(1617)に徳川秀忠から拝領した神田柳原の屋敷をなんとか守ることができたのです。
ただし、元の屋敷が2,815坪余だったのに対して拝領地は1,540坪余と、約半分の広さにすぎません。(『蒲生郡志』4)
これを「明治東京全図」でみると、拝領したのは旧上屋敷の南半分、北半分は「桜池学校」の名が見えるのです。
桜池小学校
「桜池学校」とは「第三番小学桜池小学校」の通称です。
明治政府は成立当初から、教育に対して並々ならぬ熱意を持っていて、早くも東京では明治3年(1870)6月に六つの小学校が設立しました。
しかしこれでは足りるはずもなく、明治6年(1873)にさらに3校が設立されたのですが、そのうちの一つが神田東松下町の第三番小学桜池小学校だったのです。(『千代田区史 中巻』)
話しを市橋家に戻して、邸宅は東京でも有数の繁華な場所とはいえ、邸宅と家作の両方を構えるには少し手狭ですので、市橋家の家政を支える収入を生むことはなかったとみてよいでしょう。
いっぽう、長壽が何らかの職業についたことを示す史料にも出会えませんでしたので、市橋家はひとまず家禄のみで家政をまかなう方針だったのかもしれません。
そして、250年以上にわたって守ってきた神田・東松下町の屋敷で暮らしていた長壽の運命を大きく変える出来事が明治14年(1881)に起こります。
「松ヶ枝大火」明治14年(1881)1月26日大火
神田松枝町での放火により出火、火は折からの乾燥しきった町に瞬く間に広がって、一部は隅田川さえも越えて延焼する大火事となりました。
猛火は16時間にもわたって延焼し、神田区21ヶ町、日本橋区27ヶ町、本所区50ヶ町、深川区10ヶ町の、四つの区合わせて108ヶ町1万数千戸を焼き尽くしたこの大火は、「松ヶ枝大火」の名でよばれることになります。(『中央区年表 明治文化編』)
ちなみに、この松枝大火で作家・長谷川時雨の生家が焼失するなど、東神田から日本橋の町に大きな被害を出しました。(『日本橋旧聞』長谷川時雨『長谷川時雨全集』)
幸いにも、この時は北隣の桜池小学校が何とか学校を再開していることから、松枝大火で受けた損害は部分的だったのかもしれません。
しかし、災難は忘れる間もなく再び市橋家を襲います。
明治14年(1881)2月11日火事
「神田小柳町から出火、東神田から日本橋区へと燃え移り、7,751戸を焼失しました。この火事には、警視総監(当時)が出場し、消防隊、消防組の総指揮に当たりました。」(東京消防庁消防博物館HP)
ちなみに、この大火を描いた画家・小林清親も住家を焼失し、先の松ヶ枝大火と合わせて東神田から日本橋区北部が一面の焼け野が原となっています。(大久保純一2016)
この火事での市橋家邸宅の被害についての記録は見られませんが、北隣の桜池小学校の被害については以下の記述があります。
「(明治14年2月11日の火災で)桜池小学校も類焼で廃校となった。そこで、旧千代田小学校の神田区域分と旧桜池小学の区域を統合して、神田区立の千桜小学校が設置された。その千桜小学校は、当時、東京府で唯一の石造校舎(平屋)だった。」(『新編千代田区史 通史編』東京都千代田区、平成10年)
ここから類推すると、この火事で、大切に守ってきた西大路(仁正寺)藩上屋敷に由来する市橋家邸宅は焼失、多くの財産を失ったとみられます。
市橋長壽(ながひさ・1866~1895)
慶応2年(1866)10月14日に生まれ、父・長義の死により明治15年(1882)4月に弱冠18歳で家督を相続しました。
そして家督を継いだ直後の同年5月には、市橋家の菩提寺・清源寺に家督相続を報告するために近江国西大路を訪問、5月4日には旧家臣や郷士たちを招いて祝宴を開いています。(以上『蒲生郡志』4)
これが市橋家当主による最後の西大路訪問となってしまいました。
市橋家柳原屋敷を手放す
先ほど見たように、二度にわたる火災は、市橋家の家政を激しく圧迫したと思われます。
それでも父祖伝来の土地を手放せなかったようで、神田東松下町23番地で屋敷をなんとか再建して(『華族部類名鑑』細川広世1883)、この地で翌明治15年(1882)に先代長義が亡くなっています。
明治9年(1876)に家禄が廃止されて収入源を失っているうえに、東京に移ってから父長義も長壽本人も職についていませんので、貯えを切り崩す生活だった疑いが濃厚なところに、屋敷再建でこの貯えを使い果たしてしまった可能性がぬぐい切れません。
そしてやはり屋敷を維持することが出来なかったようで、明治20年(1887)までには東京府本所区千歳町47番地、現在の墨田区千歳1丁目5付近に移さざる得なくなったのでした。(『華族名鑑 新調更正』博公書院1887)
こうした中でも、明治17年(1884)に市橋長壽は子爵に叙されています。
子爵となった長壽ですが、『日本紳士録 第1版』をはじめとするいずれの資料を見ても、職業に関連する記載が見られませんでした。
あるいは生来病弱だったために職業にはつかなかったのかもしれません。
その後、本所区千歳町で10年ほど暮らしていましたが(『華族名鑑 更新調正』博行書院1893)、明治28年(1895)5月23日、長壽は若干29歳で亡くなってしまいます。(『平成新修旧華族家系大成』)
ここまで見てきたように、二度の大火と相次ぐ当主の死で、市橋子爵家の没落が始まってしまいました。
しかし、これは悲劇のまだ序章に過ぎなかったのです。
次回は、子爵市橋虎雄の悲劇を見ることにしましょう。
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