『細雪』に描かれた松平子爵家【維新の殿様 松平家・津山藩(岡山県)⑫】

前回見たように、数々のスキャンダルにまみれることとなってしまった松平子爵家ですが、実際の姿はどのようなものだったのでしょうか?

『映画 細雪』(1950年版)四姉妹(左から高峰秀子、山根寿子、轟夕起子、花井蘭子)(Wikipediaより20210123ダウンロード)の画像。
【『映画 細雪』(1950年版)四姉妹(左から高峰秀子、山根寿子、轟夕起子、花井蘭子)Wikipediaより】

文豪・谷崎潤一郎と松平子爵家の関係

それを見るのに最適なのが、文豪谷崎潤一郎の代表作『細雪』といったら驚かれるかもしれません。

ところが、作中の主役である四姉妹の三女・雪子が最後にお見合いした御牧実こそが、松平子爵家第十一代代当主・康民の三男・渡辺明をモデルとしているのです。

第十二代当主・康春の弟でもある明は、側室の子であることから、東京市の士族・渡辺家の養子となり渡辺姓を名乗りました。(『人事興信録 6版』)

そして彼は、谷崎潤一郎の妻・松子の妹である重子と結婚したのです。

『細雪』は谷崎の実体験をもとに描かれていることから、御牧実のモデル・渡辺明の実家についても実際の松平子爵家のありさまにちかいと考えてよいでしょう。

それでは、雪子のお見合いを通じて描かれた松平子爵家の様子を、見ていきたいと思います。

『細雪』に描かれた松平子爵家の人々

まず、御牧家はこのように描かれています。

「あなた方も名前は御存知であろうが、維新の際に功労のあった公卿華族で御牧と云う子爵がある。尤も、国事に奔走した人は先代の広実で、当主広親はその子であるが、この人も既に余程の高齢に達しており、嘗ては貴族院の研究会に属して政界に活躍した経歴の持ち主だけれども、今では祖先の地である京都の別邸に隠棲して閑日月を送っている。」

「先代の広美」は斉民確堂のこと、「当主広親」とは康民のことで、熱海別邸が京都に置き換えられているほかは、全く事実通りなのはこれまでみたとおりです。

「松平康民・八百子夫妻」(『苫田郡津山市案内誌』岡山県各郡人物案内誌編纂会編(昭和11年、岡山県各郡案内誌編纂会)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「松平康民・八百子夫妻」『苫田郡津山市案内誌』岡山県各郡人物案内誌編纂会編(昭和11年、岡山県各郡案内誌編纂会)国立国会図書館デジタルコレクション】

つぎに、「当主広親」については、

「子爵の広親老人は、いかにも公卿の血を引いている、衣冠束帯の似合いそうな風貌の持ち主で、痩せた、面長の、象牙のような血色をした、ちょっと能役者と云った感じの人で、見たところ、(中略)忰の実は陽気で濶達な方であるが、父の広親は陰性の、謹厳と云う方の人であるらしく、つまり典型的な「京都人」なのであった。」

「京都人」というのは優雅で穏やかな人、という意味でしょうか。

「物静かに、ぽつぽつ口を利くのであったが、七十を超えた高齢の割にはしっかりしていて」ともあって、かなり好印象を受けた様子が手に取るようにわかります。

また、康春については、

「子爵家にはあの人の腹違いの兄に当たる、嫡男の正広と云う人があるが、その人とは分けても仲が悪くて、よく喧嘩をすること、光代自身は見てないが、激して来ると兄貴を殴ったりもしかねない」と、明との険悪な関係を記すにとどめています。

肝心の御牧実については、

「甲冑の子弟によくある型の、交際上手な、話の面白い、趣味の広い人で、自ら芸術家を以て任じている天性の呑気屋さんであるから、当人は一向そんなことを苦に病んでいない。」

「いかにも当たりの柔らかい、愛想のよい人で、別にこれと云う欠点がありそうに思われない。」

「あの人は亜米利加仕込みであるから、レディーに対しては礼儀に厚い方」

と絶賛、姉妹をはじめ周りの人たちがすっかり実の虜になっているではありませんか。

「一つ二つあの人の欠点を云えば、何事にも理解が早くて趣味が広い代わりに、気紛れで、一つ事に熱中する根気がないこと、人を御馳走したり、世話したりすることが大好きで、金を散ずることは上手であるが、作るのは下手であること」

と、生活力がないという極めて重要な欠点さえも好意的に描かれています。

「谷崎潤一郎」(『現代小説全集』新潮社、大正15年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「谷崎潤一郎」『現代小説全集』新潮社、大正15年 国立国会図書館デジタルコレクション 】

松平子爵家の実像

さて、ここまで谷崎潤一郎が『細雪』で描いた、松平子爵家をモデルとした御牧家についてみてきました。

『細雪』は谷崎が妻・松子の姉妹たちとのなかで体験したことをモデルとして描いた作品であることは広く知られるところ、松平子爵家に関しても、かなり実際に近い姿で描いているのは先に見たところです。

しかし、やはり創作上の演出はあるわけで、そこをちょっと確認しておきましょう。

御牧実はアメリカ留学をしたとありますが、モデルの渡辺明もまさにそうでした。

そして留学資金をはじめ、何度も子爵家から巨額の資金提供を受けているのも事実ですし、だからこそ子爵家の当主となった兄との間が険悪なのも納得できるところです。

しかし、実の父「広親老人」のモデル・康民は、すでに大正10年(1921)に亡くなっていて(『平成新修旧華族家系大成』)、おそらく谷崎は会ったことすらないのです。

渡辺明とは後に見るように深い交流がありましたので、明からの伝聞を反映させた可能性が考えられるのですが、だとすると自分をかわいがってくれた父のことを明が好意的に伝えたにちがいありません。

しかし、谷崎が松平子爵家をモデルにして御牧家を描く材料が、実はもう一つあったのです。

『細雪』にあるように、重子と渡邊明がお見合いの末、昭和16年(1941)に結納を交わしたのち、同年結婚すると(「年譜」)、そこから谷崎と松平子爵家に深い縁が出来たのです。

それでは、谷崎の『疎開日記』および「年譜」から、松平子爵家と谷崎のつながりを見てみましょう。

「松平康春」(『貴族院要覧 昭和17年12月増訂-丙』貴族院事務局、1943 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「松平康春」(『貴族院要覧 昭和17年12月増訂-丙』貴族院事務局、1943 国立国会図書館デジタルコレクション)】

『疎開日記』に見る谷崎と松平子爵家

昭和17年(1942)4月に谷崎は熱海市西山に別荘を購入して、昭和19年(1944)4月に魚崎の自宅に空襲の危機が迫ってきたため、一家でこの別荘に疎開します。(「年譜」)

しかし、今度は迫りくる本土決戦で熱海に米軍が上陸するとの情報が流れたため、昭和20年(1945)津山への疎開を決意、西山別荘売却をはかるものの難航していたところを、同年4月に松平子爵家が買い上げてくれることになりました。

そして明に依頼して、松平子爵家が所有していた津山の東照宮内にあった愛山宕々庵を借り受けて、昭和19年(1944)5月から7月まで間、ここで家族と暮らしたのです。

この愛山宕々庵は、「此の御殿は明治初年に城より此処に移し建てし」もので、慶倫書の軸や確堂書の額がある(「疎開日記」)といいますから、まさに松平子爵家の歴史そのものといった歴史ある建築物でした。

また、5月24日には目黒松平子爵邸が空襲で焼尽の報を受けています。

愛山宕々庵は、渡辺明に頼んで一事避難先として借り受けたものでしたので、新たな疎開先が勝山に見つかると、津山が空襲を受けたこともあって7月7日に勝山の小野はる方へ移りました。

重子が谷崎一家と暮らしていたために、明が谷崎の家をたびたび訪れていますが、一例をあげると、昭和20年(1945)8月12日に明が勝山の谷崎家を訪問、13日には永井荷風が谷崎家を訪問し、夜に谷崎と荷風、明の三人で夜が更けるまで話し込んでいます。

さらに、二日後の8月15日には、荷風を明と津山駅まで見送り、その帰りに二人で玉音放送を聞いています。(以上「疎開日記」)

永井荷風(Wikipediaより20210315ダウンロード)の画像。
【永井荷風、Wikipediaより】

この後も明と谷崎は、しばしば会っているのですが、胃がんを患っていた明が昭和24年(1949)6月11日に吐血、7月20日に大阪大学病院に入院した際には、兄の松平康春も東京から駆けつけて谷崎の家に泊まっています。

さらに、10月12日に明が危篤となると、やはり康春は駆け付けています。

そして10月15日に明は死去しました。(以上「年譜」)

ちなみに、明をモデルとした御牧実が登場する『細雪 下』はすでに前年の昭和23年(1948)12月に刊行されていますので、きっと明と康春もこれを読んだことでしょう。

こうしてみると、明は義妹・重子の夫ですので、なにかと世話を焼いたりすることはある意味当然かもしれません。

しかし、『細雪』に描いたように、「甲冑の子弟によくある型の、交際上手な、話の面白い、趣味の広い人で、自ら芸術家を以て任じている天性の呑気屋さん」で、「何事にも理解が早くて趣味が広い」明を重子が深く愛し、また谷崎もかなり気に入ったのでしょう。

谷崎は明の姿に、失われていく大名華族の華やかな文化を見ていたのかもしれません。

なお、谷崎は松平家の熱海別荘に赤白咲き分けの梅の木を贈っています。(『華族総覧』)

「谷崎潤一郎」(『文壇人物評論』正宗白鳥(中央公論社、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「谷崎潤一郎」『文壇人物評論』正宗白鳥(中央公論社、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

今回は、谷崎潤一郎の作品から戦前の松平子爵家の様子を見てきました。

最終回となる次回は、津山松平家と津山の人々を「学問」という視点から見てみたいと思います。

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