成城学校【紀伊国新宮水野家(和歌山県)68】

前回は都営大江戸線牛込柳町駅から新宮水野家原町下屋敷跡に建つ成城中・高校まで歩いてきました。

そこで今回は、成城中・高校についてみてみましょう。

成城学校

もとの緩やかな坂道を上ると、すぐに真新しい学校の前に出てきました。

ここが新宮水野家市谷原町拝領下屋敷跡地で、この学校が成城中・高校なのです。

ここで成城中・高校についてみてみましょう。

設立願と文武講習館規則(『成城学校創立五十周年記念』成城学校 編集・発行、1935 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。

成城学校は、陸軍歩兵軍曹だった日高藤吉郎(?~1932)が、明治18年(1885)に軍人を志望する少年を養成することを目的に創設した文武講習所を前身としています。

この文武講習所は、海軍省に近い現在の中央区築地に創設されました。

そして創設翌年の明治19年(1886)に成城学校と改称して、陸軍士官学校・幼年学校への予備教育を行う全寮制予備校で、全国から志願者を集めます。

しかし、築地の校地が手狭であったこともあり、児玉源太郎ら陸軍の軍人が尽力して、宮内省が保有していた新宮水野家原町下屋敷の広大な用地を下賜されたのです。

そして新校舎を建設し、明治24年(1890)9月に現在の校地に移転したのです。

ちなみに、児玉はのちに成城学校の校長(第7代・1903~1906年)を務めますが、日露戦争の英雄として知られるようになります。

児玉源太郎(『近世名士写真 其1』近世写真頒布会1935 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【児玉源太郎『近世名士写真 其1』近世写真頒布会1935 国立国会図書館デジタルコレクション】

また、川上操六が校長を務めたとき(第4代・1889~1899年)には、山県有朋や三条実美を名誉補助員として招聘したことや、現役の陸軍将校が教員として配置されるなど、陸軍と強い結びつきを持つ特異な学校となったのです。

こうして成城学校は、日高が目指した通り、終戦まで陸軍士官学校への高い進学率を図ることになりました。

第四代校長 河上操六(『成城学校創立五十周年記念』成城学校 編集・発行、1935 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【第四代校長 河上操六『成城学校創立五十周年記念』成城学校 編集・発行、1935 国立国会図書館デジタルコレクション】

成城学校の教育

いっぽうで、成城学校は独自の教育カリキュラムでも知られる存在でした。

日本ではじめて臨海学校と林間学校を開設したことでも知られています。

大正7年(1918)7月、長野県中房温泉に林間学校を解説、大正14年(1925)には神奈川県初声村、現在の逗子市に臨海学校を開設しました。

そしてそれは現在も中学校で実施されているのです。

また、戦前には留学生の受け入れにも積極的で、清国や朝鮮から大奥の留学生を受け入れたのです。

これは、卒業後に母国に還り、指導者として活躍することを目指したもので、大きな成果を生むことになりました。

成城学園

成城学校は、第9代校長に教育家として名声の高かった沢柳政太郎を校長に迎えることとなりました。(在任1916~1927年)

沢柳は文部次官を勤めたあと、第一高等学校(現在の日比谷高校)校長、東北帝国大学初代校長、京都帝国大学総長を歴任しています。

また、沢柳は生徒の自主性を重んじる新教育を行うことでも知られていました。

このため、沢柳が校長を務める際には、就任の条件として沢柳が提唱する新教育を実施する小学校設立することとなったのです。

沢柳正次郎(国立国会図書館 近代日本人の肖像より)の画像。
【沢柳正次郎(国立国会図書館 近代日本人の肖像より)】

成城学校に設立されたこの小学校は大変な評判となり、新教育を実施する中学の設立が強く要望されるようになります。

これを受けて昭和4年(1929)に、新たに世田谷に第二成城中学を設立し、これがのちに成城学園へと発展します。

ちなみに、成城学校と成城学園は、完全に分離されて別の学校法人となっており、つながりはありません。

また、成城中・高校の変遷については、第70回「新宮水野家原町下屋敷」の空中写真による地域変遷を参照空いてください。

ここまで新宮水野家原町下屋敷跡につくられた成城学校についてみてきました。

次回は、この下屋敷跡を歩いてみましょう。

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