小川橋の誕生 小川橋(おがわばし)編③

前回までで見たように、ピストル強盗清水定吉を逮捕して殉職した小川侘吉郎巡査を顕彰して名づけられたという小川橋。

しかし一方で この由来譚に異を唱える声もあります。

今回は橋の歴史をたどってその真偽をただしてみましょう。

「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永九年)『集約江戸絵図-上巻』古板江戸図集成刊行会(中央公論美術出版社、昭和39年)より筆写【浜町川部分】
【「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永九年)『集約江戸絵図-上巻』古板江戸図集成刊行会(中央公論美術出版社、昭和39年)より〔浜町川部分を筆写〕】

小川橋の歴史をたどるうえで欠かせないのが吉原遊郭の存在です。

まず手始めに、この吉原遊郭についてみていきたいと思います。

最古の江戸都市図といわれる「武州豊嶋郡江戸庄図」(伝1632年)に描かれた浜町川には、河口部の川口橋と、堀留に近い部分に栄橋が描かれるほか、橋の記載がありません。

しかし、のちに小川橋が架けられる付近に四角形をした掘割くっきりと見えます。

この掘割内が吉原遊郭です。

吉原遊郭は、天和3年(1617)に牢(浪)人庄司甚右衛門が幕府の許可を受けて、江戸の各地に散在していた遊女屋を日本橋葺屋に集めて造りました。

吉原の名前は、この地が葦や葭の生い茂る埋立地であったことから「葭原」といったのを縁起の良い「吉原」の字をあてたもとされています。

吉原は江戸で唯一、幕府公認の遊里でしたので 大変な賑わいとなりました。

ちなみに甚右衛門が吉原に行くのに便利なように東堀留川に架けたのが親父橋(親慈橋)で、吉原に行くかどうか迷ったのが思案橋の名の由来というから驚きです。

そうしたわけで、庄司甚右衛門(甚内)は江戸のはじめに江戸の町を取り仕切った三甚内の一人に数えられるほど名が知れ渡ります。

ちなみに、三甚内とは、吉原を差配した庄司甚内(甚右衛門)、ボロ市を取り仕切った鳶沢甚内、盗賊の大頭目だった向坂甚内の三人です。

江戸の町が発展して吉原があまりにも中心に近いことを問題視した幕府は吉原の郊外移転を計画すると、運営の責任者である年寄たちが遊郭の夜間営業許可と引き換えにこれを受けて、明暦2年(1656)には浅草山谷堀への移転を決断します。

ところが、準備するさなかの明暦3年(1657)、江戸の町を焼き尽くす振袖火事が発生し、吉原も焼失してしまいました。

そこで吉原は浅草山谷堀へ全面移転して、新吉原の傾城町が誕生したのです。

吉原移転に伴い跡地は町地となって難波町、同裏河岸になり、周囲を囲んでいた掘割も埋め立てられました。

ただし、南の掘割は埋め立てられることなく使い続けられます。

掘割の周辺に竃関係の店が多くあつまっていたことから、竃(へっつい)河岸と呼ばれてにぎわったのです。

「新版江戸大絵図」(表紙屋市郎兵衛(延宝4年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「新版江戸大絵図」表紙屋市郎兵衛(延宝4年)国立国会図書館デジタルコレクション 小川橋とみられる木橋が描かれています】

ここまで見てきたように、当初人気のない葭の生い茂る埋立地だったこの場所も、吉原の誕生で人が集まりはじめ、移転後に町屋になったことで、この辺りはすっかり都市化が進みます。

こうして、のちに小川橋となるこの位置に橋が架けられました。

『御府内沿革図書』の延宝年中之形(1673~81)に、名前はないものの木橋の存在が確認できます。

同じく元禄年中之形(1688~1704)には橋と共に「小川橋」の名が記されています。

また、延享3年(1746)や明和8年(1771)の江戸絵図には名前はないものの橋の存在が記されていることから、橋の名は通っていないものの、この場所に橋か架けられ続けていたことは確認できます。

『再校江戸砂子』巻一には「難波橋 はま町よりなには町にわたす」とあり、『御府内備考』巻六のは「難波橋 同じ堀(神田堀)の続き、浜町にあり。橋の西、難波町なれば呼名とす」とありました。

さらに、文政12年(1829)春に起きた江戸の大火を記録した川崎重恭『春の紅葉』記載の焼失橋のなかに、所在地を高砂橋(後の元高砂橋)と間違っているものの、小川橋が挙げられているのです。

「日本橋北、内神田、両国浜町明細絵図」((安政6年(1859))のうち浜町部分の筆写・加筆したもの)の画像。
【「日本橋北、内神田、両国浜町明細絵図」(安政6年(1859))のうち浜町部分の筆写・加筆したもの】

図は「日本橋北、内神田、両国浜町明細絵図」(安政6年(1859))のうち浜町部分の筆写・加筆したもので、赤丸が「小川橋」、水色が浜町川および竃河岸です。

また、『新撰東京名所図会』にも「小川橋 浪花町より久松町、日本橋警察署前に通づる木橋にて久松橋の北に在り」と記されています。

そして、『日本橋区史 第1冊』掲載の「明治十五年府統計」によると、「橋名:小川橋、所属地名 浪花町ヨリ久松町ヘ渡ル」、長さ6間・幅3間の木橋が安政5年(1858)に架けられ、さらに同書によると明治35年には工費6,899円で長さ6間・幅6間の木橋が架けられました。

「小川橋」(『日本橋区史 参考画帖第1冊』東京市日本橋区編(東京市日本橋区、1916)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「小川橋」(『日本橋区史 参考画帖第1冊』東京市日本橋区編(東京市日本橋区、1916)国立国会図書館デジタルコレクション)】

写真は、石造の橋台を持つ方杖橋であることから、明治時代35年架設の木橋と思われます。(「小川橋」『日本橋区史 参考画帖第1冊』)

さて、そんな中、東京の街を、大正12年(1923)に関東大震災が襲います。

下町の多くが劫火にのまれて壊滅的被害を受け、小川橋周辺も一面が焼け野原となる甚大な被害を受けました。

ですので、木橋だった小川橋の損傷も激しく、復興事業で架け替えが決まります。

「関東大震災の被害、浜町河岸」(『日本橋消防署百年史 明治14年-昭和56年』日本橋消防署、1981国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「関東大震災の被害、浜町河岸」『日本橋消防署百年史 明治14年-昭和56年』日本橋消防署、1981国立国会図書館デジタルコレクション】

写真(「関東大震災の被害、浜町河岸」『日本橋消防署百年史 明治14年-昭和56年』)は焼け野原と化した浜町河岸の様子で、地域における被害の大きさがうかがえます。

それでは、関東大震災からの復興事業で新しくなった橋の様子を『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』で見てみましょう。

「本橋の型式は鈑桁橋にして、径間は一径間」、「橋脚はなく、橋梁の基礎は杭打式、その躯体は鉄筋コンクリートに依つて施工」、「路床の構造は、車道は脹鈑及びコンクリート、歩道は鉄筋コンクリート、橋面の舗装は車道面は木塊、歩道面はモルタルの舗装、而して高欄は切石と半鋳鋼との併用施工」と、詳しく構造を述べています。

ここまで見たように、小川橋は典型的な復興橋のスタイルなのですが、そのなかでもかなり質素で安価なものといえそうです。

このことは、復興事業の中で浜町川および小川橋があまり重要視されていないことを表しているのかもしれません。

橋の規模は全長13m4、有効幅員22m0、橋面の有効面積294㎡、架橋地点の河幅は橋の南で13m5、北で12m1となっています。

 昭和19年撮影【小川橋部分】(8921-C2-19、国土地理院Webサイトより)の画像。
【昭和19年撮影の空中写真【小川橋部分】(8921-C2-19、国土地理院Webサイトより)】

昭和19年撮影の空中写真の中央に見える小川橋は、浜町川に架かる周辺の橋よりも一回り大きな橋であることが分かるでしょうか。

こうして関東大震災を機に、近代的な橋に生まれ変わった小川橋。

しかし、さらに過酷な運命が待ち構えていたのです。

次回は現代までの歴史をたどります。

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