長守の活躍【勝山藩小笠原家編(福井県)㉗】

前回は林毛川の藩政改革をみてきました。

強権的な改革は失敗に終わったものの、じつは大きな成果を生みつつあったのです。

そこで今回は改革の成果を受け継ぐ藩主長守の活躍をみてみましょう。

小笠原長守(ながもり・1834~1891)

第7代藩主長貴の六男として生まれ、父の病死により天保11年(1840)5月に7歳で襲封しました。

この時、学問優秀でその名が知られていた林芥蔵(毛川)が家老となって、極度に行き詰った藩の改革に着手したのは前にみたところです。

毛川は翌天保12年(1841)2月に藩主長守を訓育するために『時務拙論附改革要務』を執筆しています。

さらに嘉永元年(1848)には『上書草稿』十七カ条を示して、藩主の為政者としての心構えを説くとともに、綱紀の確立・人材の育成・産物の重視など、毛川改革の肝を伝えたのです。

さらに、天保13年(1842)には詳細な5か年倹約令を出して、藩主長守の日常生活も簡素で簡略なものにしています。

前にみた毛川らしい、ちょっと古風で厳しいやり方ですが、長守はこれに応えていますので、毛川に寄せる信頼も厚かったのでしょう。

小笠原長守(Wikipediaより20211010ダウンロード)の画像。
【小笠原長守(Wikipediaより)】

林毛川の失脚

そして前にみたように毛川が、藩校・成器堂設置や、長山講武台建設を行うとともに、産物改会所を設けて専売制を敷くなどして、藩政改革を進めたのでした。

ところが、弘化4年に幕府から関東川々普請助役を命じられたことで出費が増大し、藩財政再建の見通しが立たなくなってしまったのです。

こうした中、安政2年(1855)の安政江戸地震で江戸藩邸が大破したことをきっかけに、林毛川をはじめとする藩政改革に取り組んできた藩重役たちを処分したのは前回みたところです。

藩政改革の成果

しかし、毛川の藩政改革そのものは、藩主長守の親政でも続けられて、成果を生み出していきました。

意図的ではないにせよ、結果として強権的藩政改革への反発は毛川に責任を負わせるいっぽう、成果は長守が引き継ぐことになったのです。

その結果、幸いにも長守は毛川の施策をほとんどそのまま引き継ぐことができたのでした。

そして、文久2年(1862)兵制をこれまでの長沼流からオランダ式に改める軍制改革を行っています。

米国公使館警固

最新の軍制に改めたことが評価されて、文久2~3年(1862~63)には麻布善福寺に置かれた米国公使館の警固を命じられると、自ら藩兵を率いて任につきました。

この時期は、前年の万延2年(1861・文久元年)には通訳のヒュースケンが寺近くで暗殺されていますし、文久2年12月12日(1863年1月31日)長州藩士高杉晋作・久坂玄瑞・志道聞多(のちの井上馨)・伊藤俊輔(博文)らによるイギリス公使館焼き討ち事件が起こっていますので、まさに臨戦態勢の警固だったに違いありません。

さらに、元治元年(1864)には長州征伐の本陣が置かれた大坂加番を命じられています。

豊原国輝筆「近世史略-武田耕雲斎-筑波山之圖」(Wikipediaより20210322ダウンロード)の画像。
【豊原国輝筆「近世史略-武田耕雲斎-筑波山之圖」(Wikipediaより)】

水戸天狗党通過

その元治元年(1864)3月、水戸藩の尊王攘夷派・天狗党は、筑波山で挙兵して京都に向かいました。

各地で戦闘を続けながら、12月に美濃から警備が厳重な中山道を避けて北上し、越前大野藩領に入ります。

そして、天狗党追部の指揮を執る一橋徳川慶喜から、天狗党の迎撃に向かう大野藩兵を支援する命を受けて、勝山藩は福井藩とともに大野城下に進軍しました。

12月4日に、大野藩兵と天狗党は笹俣坂で激突します。

結果、険しい地形を利用して防戦する大野藩兵に天狗党は苦戦して、近隣の八河川を焼き払いながら木ノ本方面へと撤退したのです。

このように幕府に報告しつつ、実は村々を焼き払ったのは大野藩で、さらに大野藩が金品を渡して大野藩領から撤退してもらったというのが現実だったようです。

ですので、勝山藩と福井藩の援軍が出撃することはありませんでした。

天狗党降伏

その後、12月11日に天狗党が木の芽峠を越えて敦賀に進むと、勝山藩兵は、福井藩・鯖江藩・大野藩・金沢藩などの藩兵とともにこれを包囲しました。

まもなく包囲網に小田原藩・会津藩・桑名藩・大垣藩・彦根藩も加わると、厳重な包囲に天狗党も徳川慶喜に陳情書を提出して降伏したのでした。

武田耕雲斎(『肖像 二之巻』野村文紹、国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【武田耕雲斎『肖像 二之巻』野村文紹、国立国会図書館デジタルコレクション 天狗党上京を指揮した武田耕雲斎は、維新後に顕彰されました。】

今回は、藩主長守の軍制改革を断行した藩主長守が、江戸大坂での警固役、さらに天狗党迎撃と、軍務に追われる様子をみてきました。

軍務には莫大な出費が伴うことはもちろん、幕府の命に忠実な勝山藩は、事態の急変についていけるのでしょうか。

そこで次回は、勝山藩の明治維新をみてみましょう。

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