長育死す【勝山藩小笠原家編(福井県)㉟】

前回みたように、広く世に知られる存在となりつつあった長育ですが、その活動は突然終わりを迎えます。

今回は、長育のあまりにも早すぎる死についてみてみましょう。

有馬道純(Wikipediaより20211012ダウンロード、露出低下の加工)の画像。
【有馬道純(Wikipediaより) 長育とともに明宮侍従を務めました。】

東宮侍従

前にみたように、貴族院ができて活動に変化が見られはじめていたとはいえ、長育の根本は、東宮侍従という職務にありました。

『朝日新聞』明治24年(1891)7月7日付東京版朝刊に、東宮の伊勢行啓について長育たち侍従と関係者が打ち合わせを行ったことが記させています。

また、『読売新聞』明治24年(1891)12月27日付朝刊に、「本日より熱海供奉に付新年の回礼を欠く」旨の広告を掲載しています。

病弱ではありましたが東宮(のちの大正天皇)は毎年のように日本各地へ行啓をおこなっていますので、東宮侍従として長育も準備や供奉を務めたのでしょう。

また、東宮は御用邸へ療養に向かうこともありましたので、ここでも侍従として職務に当たったと思われます。

大宮以季(Wikipediaより20211012ダウンロード)の画像。
【大宮以季(Wikipediaより) 長育とともに東宮侍従を務めました。】

新たな活動へ

『朝日新聞』明治28年(1895)1月3日付東京版朝刊には、長育たちが休眠中だった躬行会を復活させようと試みている記事が掲載されています。

躬行会とは、「道徳ノ研修躬行及ヒ其普及ヲ計ル」ことを目的として、主に青年華族が集まった会で、政治活動などを行わない親睦会的なものでした。(『躬行会雑誌 第7号』)

この躬行会再興を、長育は華族同方会で規則改正を検討する委員会(運営委員会)で提案したのです。

おそらくこれは、活動が下火になりつつあった華族同方会に代わる場を設ける試みだったとみてよいでしょう。

長育の転居

ここで長育が繰り返した転居についてみてみましょう。

長育が父の長守に従って東京で暮らしたのは、下賜された日本橋区久松町31番地の邸宅でした。

そして明治6年(1873)5月17日に家督を相続して邸宅を引き継いでいます。

この邸宅が、明治13年(1880)の大火で焼失したのは、長守の項でみたところです。

この火事で財産の多くを失った長育は、下町のど真ん中、本所区緑町1丁目45番地、現在の墨田区緑1丁目21番地付近に引っ越したのでした。

家政好転

その後はいくらか家政が改善したようで、明治20年(1887)頃には父長守が別居して本所区番場町29番地、現在の墨田区東駒形1丁目17番地付近に隠居所を構え悠々自適の暮らしを行った後、明治24年(1891)に没しました。

長育は『読売新聞』明治20年(1887)2月6日・8日・9日の三日間付朝刊に、牛込区牛込弁天町76番地、現在の新宿区弁天町76番地付近への転居広告を掲載しています。

先にみたように、このころから若尾家との親族関係ができていますので、何らかの援助があったのでしょう。

さらに、明治23年(1890)ころには牛込区牛込北町13番地、現在の新宿区北町13番地付近の閑静な邸宅街に引っ越しています。

このころは長育が華族同方会などで活発に活動していた時期とも重なっていているのです。

その後、『読売新聞』明治24年(1891)12月17日付朝刊に、赤坂区青山北町36番地、現在の港区南青山5丁目1-10付近への転居広告を掲載しています。

この地は青山墓地裏の寂しいところでしたが、整備されて邸宅街となった場所。

これは、実弟の粲四郎をはじめとする若尾家からの援助のたまものなのかもしれません。

長育死去

こうして活躍が期待されていた長育ですが、明治28年(1895)7月24日に病気で急逝してしまいます。

浅草海禅寺で葬儀が行われて、この地に長育は葬られました。

こうして、東宮侍従として、また華族の一員として、さまざまな活躍を見せ始めていた小笠原長育子爵は、37歳の若さでこの世を去りました。

小笠原家の家督は若干9歳の嫡男勁一が継ぐものの、長育がようやく作り上げた人脈も途絶えてしまったのです。

勁一は旧領国の福井県勝山町に帰り、この地で育つことになりました。

いっぽう、なによりも「世界無比」である皇室に対して自ら「忠愛至誠」を尽くす道を示していた長育にとって、病弱な東宮、のちの大正天皇のことが気がかりだったに違いありません。

今上天皇陛下(大正天皇)(『皇室写真帖』皇室写真帖編纂所-編(皇室写真帖発行所、大正11年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【今上天皇陛下(大正天皇)『皇室写真帖』皇室写真帖編纂所-編(皇室写真帖発行所、大正11年)国立国会図書館デジタルコレクション】

しかし、長育が残した「命を懸けて皇室につくすことこそが国民のあるべき姿である」という考えは大きく広がって、現在でも少なからず残っているのではないでしょうか。

ここまで小笠原長育の歩みをみてきました。

次回は、長育の跡を継いだ嫡男勁一についてみてみましょう。

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