【節分】節分の歴史:①節分とは? / ②お水取りと追儺と陰陽道 / ③お正月と節分がいっしょに来る / ④ニュータイプ節分の誕生
前節で見たように、江戸時代は似たような行事を何度も行う状況でした。
新年の行事と節分行事が影響しあいながら融合した結果でしたが、それが大きく変わったのが明治5年(1873)の明治政府による太陽暦の導入によります。
旧暦の明治5年12月3日を 新しい太陽暦では明治6年1月1日としたので、暦の日付が一ヶ月近くはやくなったのです。
この結果、新しい年が来る日と季節が冬から春に変わる日のずれが、数日から約1ヶ月に開くことになって、正月と節分を一緒に行うことができなくなってしまいます。
新暦に合わせて正月と節分を別々に行うこととなって、融合していた行事を再び二つに分けることになりました。
こうして節分は、正月から切り離されました。
中国由来の追儺からは鬼の姿、陰陽道による節分節からは豆まき、修正会・修二会から群衆に向かって撒く姿、これらを融合させた新しい節分行事が成立します。
結果的に、行事本来の意味の多くが失われましたが、物忌みや魔除けと比べて積極的で攻撃的な豆まきはイベント性が極めて高く、節分がある種のショーとなることで復活を果たしました。
本来は地方によって特色が見られた豆の打ち方も、マスコミやテレビなどの働きによって全国的に画一化されて日本の国民的行事へと変貌を遂げています。
戦後の高度経済成長のなかで、古くからの年中行事の多くが失われましたが、豆まきは形を変えつつも良く残された行事です。
各地の有名寺院では有名な芸能人や大相撲の関取を招いて豆まきを行ったり、恵方巻という大阪発の風習も広がって、節分は現在でも盛んに行われる楽しい行事となっています。
この文章を執筆するにあたり、以下の文献を参考にしました。
また、文中では敬称を略させていていります。
参考文献:日本風俗学会編『日本風俗大事典』1979弘文堂、
西山松之助・南和男ほか編『江戸学事典』1984弘文堂、
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』1987吉川弘文館、
小木新造・陣内秀信ほか編『江戸東京学事典』1987三省堂、
加藤友康・高埜利彦ほか編『年中行事大辞典』2009吉川弘文館、
福田アジオ・新谷尚紀ほか編『日本民俗大辞典』1999・2000吉川弘文館、
神崎宣武・白幡洋三郎・井上章一編『日本文化事典』2016丸善出版
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