前回にみた藤巻義夫が『隅田川絵巻』の冒頭で描いた白鬚橋、その架けられた場所はどんなところなのでしょうか?
まずはこの橋の架かる前の歴史から見てみることにしましょう。
白鬚橋は、東京都台東区橋場二丁目・荒川区南千住3丁目と墨田区堤通1丁目を結ぶ橋です。
白鬚橋の架かる以前、この地には隅田川で最も古いと伝わる「橋場の渡し」がありました。
「伊勢物語」に出てくる隅田川の渡しも、ここだといわれている歴史ある場所です。
この渡しの様子は、歌川豊国(三代)・歌川広重(二代)合筆「江戸自慢三十六興 橋場雪中」元治元年に生き生きと描かれています。
そしてじつは、この場所は はじめて隅田川に橋が架けられた場所でもあります。
源頼朝が治承4年(1180)に挙兵したものの、石橋山の合戦で大敗し、安房へと逃れた再び勢いを盛り返して武蔵国府を目指して進撃していた時のことです。
挙兵以来味方していた武蔵国豊島郡江戸郷を本願地とする江戸太郎重長が、この場所に三千艘もの船を連ねて舟橋を架けて、隅田川を渡らせました。
「橋場」と言う地名は、この故事に由来しているのです。
またこの橋の名は、橋の墨田区側たもとにある白鬚神社に由来しています。
この神社は社伝によると、この神社は天暦5年(951)に元三大師の名で親しまれる慈恵大師良源によって近江の白鬚神社を勧請したことに始まる由緒ある神社です。
現在でも、かつての墨田の寺島村、現在の東向島、墨田、堤通、京島、八広、押上の鎮守として広く信仰を集めていて、墨田川七福神の壽老人としてご存じの方もおられるかと思います。
この辺り、江戸時代には松や欅などが生い茂る「白鬚の森」と呼ばれる名所で、多くの浮世絵にも描かれました。
それらの作品からは、このあたりが浅草や新吉原といった一大繁華街にほど近いとは思えぬほど のどかな様子がよくわかります。
「白鬚の入江、水鳥の名所なり。初雁は空飛ぶうちの名なりけり。葉月のはじめより、田の畔もがんかもの、すみかとなって、道行く人をもおそれず。」【江島菊塢『墨水遊覧誌』】
このように、白鬚の森はもの静かな名所だったのです。
物静かな場所のためか、長らく雪の名所としても有名でした。
川瀬巴水「東京十二題 雪の白ひげ」は、そんな魅力を余すところなく伝えています。
また、隅田川の堤防には多くの桜が植えられていて、江戸・東京を代表する桜の名所として有名だったことはみなさんも滝廉太郎作曲の「春」でご存じかもしれません。
「墨堤」とよばれ親しまれた江戸時代のお花見スポットの中で、白鬚の杜は北の端にあるので春には多くの見物客が訪れていました。
この花見の様子を三世河竹新七は次のように描いています。
「(郡右衛門)上野飛鳥とこと変わり、名に負う隅田の桜の盛り、また一入の眺めであるわい。
(おかの)白鬚まで人混みゆえ、船で回って橋場から、人目離れた木母寺は、ホンに静かで御座んなァ。
(小助)それも明日は梅若で、人が群れを致しましょうが、今日は三月十四日、一日違いで植半も定めてすいて居りましょう。」 【三世河竹新七『忠臣蔵年中行事』】
ここまで白鬚橋の名前の由来となった白鬚神社を中心に、地域の歴史を見てきました。
次回では、白鬚橋自体の魅力に迫っていきたいと思います。
コメントを残す