前回は遣唐使を中心に、古代の五島をみてきました。
今回は、遣唐使廃止から日宋貿易が盛んになるまでをみてみましょう。
遣唐使の廃止
「白紙に戻す遣唐使」、みなさんも学生時代に菅原道真の提議により遣唐使が廃止された寛平6年(894)をこう覚えたかもしれません。
さらに、遣唐使が廃止されたあと907年には唐自体が滅亡してしまうのです。
ここで中国・朝鮮半島と日本との貿易は途絶えるのでしょうか?
じつはその逆で、このころまでに民間貿易が盛んとなって、海をまたいで活躍する商人たち、海商が出現し東シナ海に恒常的な民間航路をつくりあげていたのです。
円仁の旅
一例をあげると、第三代天台座主となった円仁は、承和5年(835)の実質最後となった第19次遣唐使船で行くのですが、帰りは承和14年(847)に「新羅人」金珍の船に乗って、山東省赤山浦を出発し、博多へと戻っています。(『入唐求法巡礼行記』)
帰路に五島は通っていませんが、東シナ海の民間航路が発展する状況がみてとれるのです。
円珍の旅
ここで注目したいのが、第五代天台座主となった円珍の旅です。
円珍は、仁寿3年(853)「大唐国商人欽良睴」の船で博多から五島の鳴浦(奈留浦)を出発し、台湾に漂着したあと福建省福州に到着して中国に入ります。
帰りは天安2年(858)李延孝の船で浙江省台州を出発し、三井楽を経由して博多に戻っているのです。(『長崎ガイド』)
円珍と円仁の旅からは、当時、山東半島から朝鮮半島の西を通って博多に至るルートと、浙江省から五島を経て博多に至るルートが確立されて多くの商船が往来するようになっていたとみてよいでしょう。
日宋貿易
960年に太祖趙匡胤が宋を建国して中国統一すると、日本と正式な国交は結ばなかったものの、貿易は盛んとなりました。
初期には博多の鴻臚館で大宰府が管理していたものの、次第に民間の貿易に任せるようになって、日本からは金や刀剣、漆器、扇などが輸出され、中国からは絹織物、陶磁器、書籍、宋銭が輸入されたのです。
なかでも宋銭は日本の貨幣流通を劇的に進展させたのは学校で習って覚えている方もおられるのではないでしょうか。
この日宋貿易をになった宋の商人たちは、その拠点を平戸に設けましたので、先に見た浙江省から五島を経て博多に至るルートが交通の大動脈となって、五島列島が大陸への玄関口となったのです。(以上『長崎ガイド』)
こうした状況は、中国で王朝が現に後退しても続いて、11世紀中ごろから14世紀半ばまでの300年にわたって続くことになりました。
今回は遣唐使の廃止から日宋貿易が盛んになるまでをみてきました。
次回は、五島氏の先祖、宇久氏のはじまりをみてみましょう。
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