作家の林芙美子が昭和26年(1951)6月28日午後11時過ぎに倒れ、翌29日午前1時に心臓麻痺により急逝したことにちなんで、6月28日は芙美子忌とされています。
そこで、林芙美子の激しい生涯をたどってみましょう。
上京まで
林芙美子(はやし ふみこ)は、戸籍上明治36年(1903)12月31日に山口県下関市田中町のブリキ職槇野敬吉方の二階で生まれ、私生児として届け出られました。
母・林キクの二女で、本名はフミコです。
父は行商人と相場師などの職業とする宮田麻太郎でしたが、芙美子が8歳の時に両親は離婚、のちに母の再婚により、沢井喜三郎が養父となっています。
この喜三郎が行商人だったことから、長崎・佐世保・鹿児島と移りながら幼年期を送ったのち、大正5年(1916)に数え14歳で広島県尾道の土堂小学校5年に編入しました。
その後も行商の手伝いなどしながら、トータルで8年かけて小学校を卒業したといいます。
尾道では、小学校の先生・小林正雄から作文指導を受けただけでなく、上京後も文学書を送るなど長期にわたる支援を受けたことが、のちの人生で生きてくることになります。
大正7年(1918)に両親に隠れて市立尾道高女を受験して合格、帆布工場や女中などのアルバイトをしながら、大正11年(1922)に卒業しました。
19歳で因島出身の明治大学生・岡野軍一を追って上京すると、銭湯の下足番や帯封の宛名書きなどをして暮らすものの、大正12年(1923)に岡野が婚約を破棄して帰郷してしまい、取り残されることになります。
林芙美子の放浪
芙美子は本郷根津の貸間で関東大震災に被災すると、いったん尾道に帰りました。
その後、尾道や四国で詩作したのちに単身上京して近松秋江宅で二週間女中をしたのち工員、売り子、事務員、女給などをしながら『放浪記』の原型となる『歌日記』を書きはじめます。
また、詩や童話を売り歩き、『日本詩人』『文芸戦線』に詩が掲載されたことから、詩人で新劇俳優の田辺若男と知り合って同棲をはじめました。
そこから萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤、高橋新吉、辻潤らアナーキストの詩人や作家、演劇人たちと交流をもつようになり、その詩才を認められて才能を伸ばしています。
また、宇野浩二に小説作法を教えられ、徳田秋声を訪問したことが、のちの自然主義的作風を産むことになるのです。
大正14年(1925)に田辺と別れて、詩人の野村吉哉と同棲し、一時隣人となった壺井栄や平林たい子とは終生交友を続きました。
そして大正15年(1926)には画家志望の手塚緑敏と出会い、結婚しています。
『放浪記』
長谷川時雨主宰の『女人芸術』に昭和3年(1928)10月に『放浪記』(昭和5年刊行)の一部となる『秋が来たんだ』を掲載しました。
この作品は、サブタイトルが『放浪記』でしたが、これは芙美子の才能を認めて妻の長谷川時雨に推薦した三上於菟吉が付けたものといわれています。
この『放浪記』は大好評を博して翌年まで続編を連載したうえ、『放浪記』の姉妹作である詩集『蒼馬を見たり』が友人・松下文子の援助で、芙美子の最初の単行本として自費出版したのです。
その後は『放浪記』『続放浪記』『清貧の書』などの作品が次々と刊行されるとともに、『浅香譜』『風琴と魚の町』などの作品を次々と発表し、人気作家の仲間入りを果たします。
そして昭和6年(1931)11月にはシベリア経由でヨーロッパに渡り、主にパリで半年間滞在して帰国し、淀区下落合に居をかまえました。
昭和12年(1937)11月に夫・緑敏が招集されると、12月には自身も毎日新聞特派員として陥落後の南京に入るなど、従軍記者として活躍、さらに第二次世界大戦中は、ペン部隊として国策に協力し、中国や満州、東南アジア各地で従軍記者や報道班員を務めています。
戦後
芙美子は、戦後も変わらず人気流行作家の地位を保ち続けます。
戦争の傷跡を女性の情念でとらえた長編『浮雲』(昭和26年)や『晩菊』(昭和24年)などの名作を次々と発表して旺盛な執筆活動を続けました。
昭和25年(1950)4月から5月にかけて、『浮雲』最終部分執筆のために屋久島へ取材旅行に出かけると、帰路に長崎や桜島を周遊しました。
このころから過労により持病の心臓弁膜症が悪化し、医師から静養を言い渡されて、毎月一週間ほど執筆場所を熱海の桃山荘に移すことにしたのです。
昭和26年(1951)6月28日、芙美子は雑誌『主婦の友』に新連載する『私の食べ歩き』の取材で銀座の割烹に行った帰り道に深川のうなぎ屋に寄って帰宅、ところが午後11時過ぎに就寝したところ苦しみを訴えて吐しゃ、そのまま29日午前1時に心臓まひのために死去、享年47の若さでした。
あまりの多忙ぶりからの急逝に、「ジャーナリズムに殺された」との非難が巻き起こったのは当然といえるでしょう。
林芙美子の過労死に思う
それにしても、芙美子のあまりにも早すぎる死は、どうにもやりきれない気持ちが湧き上がって来るのを止められません。
芙美子の過労死は、その人の未来を奪うだけでなく、まわりの人たちの希望も奪うものだということを、私たちに教えてくれるのです。
(この文章は、『日本近代文学大事典』『国史大事典』の関連記事をもとに執筆しました。)
きのう(6月27日)
明日(6月29日)
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