前回まで天童藩主・織田家の歴史を見てきました。
ところで、幕末に庄内藩に焼き討ちされた天童は、いったいどうなったのでしょようか。
そこで今回は、天童の近代を見てみることにしましょう。
天童の明治維新
慶応4年(1868)4月4日、庄内藩兵が天童を急襲するとともに町に火をつけて、そのほとんどが焼失したことは第11回「天童炎上」で見たところです。
明治4年7月17日には廃藩置県により天童藩が廃止されて天童県が置かれ、藩主だった織田信敏が知藩事となりました。
ところがこの天童県はわずか1か月ほどで廃県となり同年8月29日には山形県に統合されたのです。
わずかの期間でしたが、信敏は藩校を再建するなど天童の復興に努めましたが、廃県とともに上京を命じられて織田家は東京へと去りました。(第13回「天童藩消滅」参照)
こうして天童藩の城下町としての機能が天童から失われます。
紅花の衰退
出羽国村山郡の基幹産業であったベニバナは、生産者のみならず地域に広くその恩恵を与えてきました。(第7回「天童藩貧乏脱出大作戦・広重とコラボ」参照)
しかし、明治時代に入ると中国産の安価なベニバナが盛んに輸入されるようになり、山村郡のベニバナは大きな打撃をこうむります。
さらに、化学合成によるアニリン染料が普及するとベニバナ栽培は急速に衰退して、わずかに観賞用として栽培されるほかは村山郡からほとんど姿を消すようになったのでした。
鉄道開通
前にみたように、天童は羽州街道と仙台に続く関山街道、そして最上川の舟運の結節点として、また宿場町として繁栄してきました。(第6回「天童藩誕生」参照)
明治15年(1882)関山隧道が開通し、明治20年(1887)国鉄東北本線仙台駅が開設されると、天童と仙台の交通が盛んになります。
しかし、明治34年(1901)に国鉄奥羽南線、のちの奥羽本線天童駅が開設されると、関山街道は急速に衰退しました。
さらに鉄道交通の発達によって最上川舟運は急速に衰退し、天童に近い寺津河岸もすっかりさびれてしまいます。(『地名大事典』)
同様に、羽州街道も衰退しましたので、天童の富の源のひとつであった宿場町の機能も失われることになったのです。
天童の復興
こうして江戸時代に天童の発展を支えた、ベニバナ、最上川の舟運、羽州街道、そして天童藩の城下町という用件は、明治時代中頃にはすべて失われることになりました。
それでは天童の町が消えてなくなってしまったかというと、そうではありません。
地域の人々の努力と、いくつかの幸運が重なって、みごとに天童の町は復興し、発展を遂げることになったのです。
それでは、その過程を順に見ていきましょう。
東村山郡役所
明治11年(1878)に郡区町村編成法が施行されると、村山郡は東西南北の四郡に分割されて、このうち東村山郡の郡役所が天童に置かれることとなります。
東村山郡の誕生に伴って、天童に郡役所として白亜三層の楼閣が建設されて、明治12年10月に落成、同年11月に開庁しました。
この建物は、明治14年(1891)の明治天皇東北巡行の際には昼食の行在所として使用されるなど、地域のシンボルとなっていきます。
なお、この建物は昭和60年(1985)に復元工事が行われて、舞鶴山に建設当時の美しい姿をみせてくれます。(山形県Webサイトより)
天童町誕生
東村山郡が誕生する前後から、村山郡内では行政単位としての村の改変が繰り返されましたが、明治7年(1874)には天童郭内と家中町を合わせて田鶴町がつくられ、さらに明治15年には田鶴町と天童村が統合して天童町が成立しました。
さらに明治22年(1889)の市制町村制施行により合併が促進されて、天童町、北目村、老野森村、久野本村が統合されて新生・天童町が誕生します。(以上『地名大辞典』)
こうして東村山郡の郡役所が置かれたことと相まって、かつての天童の城下町がふたたび地域の行政的中心となったのです。
地域産業振興の模索
全国的な養蚕業の発展を背景として、東村山郡でもベニバナ栽培にかわって養蚕業が盛んとなっていきました。
そこで、明治32年(1899)には五日町に製糸場の東郡社が、明治43年(1910)には干布村に出田原製糸場が開設されています。
また、このころ老野森村では製麵業が盛んとなって、素麵が天童の名産となったのもこのころでした。
しかし、さらに地域産業の振興のためには、天童ならではの地場産業の育成が必要なのはいうまでもなく、さらなる模索が行われます。
そこで、再び注目されたのが将棋の駒生産でした。
天童駒
幕末に吉田大八が藩士の窮乏を救うために将棋駒製造を家中衆の手内職として奨励したことは、第9回「天童と将棋駒の出会い」でみたところです。
それ以来、木地屋と書き屋に専業化した家内手工業になって地元周辺地域向けに将棋駒生産が確立し(「天童将棋駒」『地名大辞典』)、明治2年(1869)将棋駒卸売業(駒屋)が形成されます。(『将棋の博物誌』)
駒の書体は草書と楷書があるのですが、江戸時代から天童駒の伝統は草書で、漆で駒木地に文字を書く「番太郎駒」と呼ばれる安価なもので、関西の高級な彫り駒からみると大衆駒でした。(『地名大辞典』『日本将棋集成』『将棋の博物誌』)
効率化と生産技術向上
しかし、ここから天童の職人たちによる駒生産の効率化と生産技術向上への血のにじむような努力が積み重ねられていきます。
明治43年(1910)足踏み式荒切機を考案(『将棋の博物誌』)これ以前は、木地作りは鉈一丁による手作業でした。
大正8年(1919)中島為三郎が電力による原木の玉切りを始めた(『将棋の博物誌』)ことも、生産効率の向上に大きく寄与します。
さらに、明治末期から大正期にかけて足踏み機からガソリンモーター機へと機械化が進み、さらなる効率化が図られました。(『地名大辞典』)
いっぽうの生産技術の向上については、大正2年(1913)三河金次郎が印鑑彫りの技術を応用して彫駒制作おこなったことや、大正4年(1915)竹内七三郎が東京・奥野一香のもとで駒彫を習い、東京彫りを導入した(『将棋の博物誌』)ことがあげられます。
三河と竹内は、彫りの技術を向上させることで、天童駒を安価な番太郎駒からより高級なものにしようと試みたのでしょう。
しかし、天童駒の名が全国に知られるようになるのは、昭和に入るのを待たなければなりません。(『日本将棋集成』)
将棋特需
昭和6年(1931)に満州事変が勃発すると、中国大陸での戦線が拡大していきました。
すると、この陸軍兵たちへの慰問品として将棋駒や明治末に考案された軍人将棋駒の需要が急増したのです。
この需要にこたえるために、大阪でスタンプ駒(押し駒)が考案されましたが、増大する需要に応じきれず、天童でもスタンプ駒がつくられるようになります。(『将棋の博物誌』)
このころにすでに、西日本は大阪産の駒、東日本は天童産の駒が流通する状況になっていました。(「天童将棋駒」)
昭和7~10年(1932~1935)には、生産工程に諸機械の電動化が進みます。(『将棋の博物誌』)
さらに、昭和12年(1937)になると、天童町将棋駒工業組合が結成されました。(『将棋の博物誌』)
こうして昭和13年からは電力化が進んだことで生産額が増大し、さらなる効率化でコストダウンに成功したのです。(『地名大辞典』)
天童駒、日本一に
このように、生産コストの削減や生産体制の見直しなどによって価格が下がった天童のスタンプ駒は生産が急増していきます。
しだいに「大阪駒」さえもがその多くを天童でつくるようになって、ついに大阪を凌駕して天童が生産量全国一の座を占めるようになりました。(「天童将棋駒」)
じつは、現在でもスタンプ駒が天童の生産額の過半を占めているのです。(『将棋の博物誌』)
こうして将棋の駒といえば天童と誰もが思い浮かべるほど、天童駒の名は全国にとどろくようになりました。
戦後の天童駒
戦後になっても将棋駒を誰もが使いやすいものにする取り組みや品質向上への取り組みは続きます。
昭和21年(1946)書き駒の草書体が少なくなり、楷書体が主流になる(『将棋の博物誌』)のは、江戸時代以来の伝統にこだわらず、読みやすい駒を作る意図があったのでしょう。
そして、品質向上への取り組みとしては、昭和30年代(1955~1964)にシャムツゲ材を導入して彫駒の需要に対応したことや、彫駒の目止についてニカワに代えてボンドを使用したこと、昭和40年代(1965~1974)に彫駒に機械彫りを導入したこと(『将棋の博物誌』)などがあげられます。
さらに、より多様な需要にこたえるべく、昭和40年代(1965~1974)に堀埋め、盛上げ駒の商品化を行ったり、字形に多くの書体を使うようになりました。(『将棋の博物誌』)
このような取り組みが形となって、昭和の終わりごろからは高級駒の生産地としての評価が高まるようになったのです。(『日本将棋集成』)
昭和54年(1979)には従業者200人、事業所57、産額250万組・約6億円にまで発展したものの、書き駒・彫り駒・飾り駒とも工場制の大企業化は困難で、小企業の域にとどまっているという課題が残っているのも事実です。(『地名大辞典』)
将棋の町・天童へ
こうして天童駒は、全国の95%を独占するまでになって、特色ある伝統産業として天童の名を知らしめることに成功しました。
これを受けて、平成4年(1992)には総工費は5億5千万円をかけて将棋の駒をイメージした外観の観光情報センタービルを建設(『将棋の博物誌』)、その中に天童市将棋資料館が建設されて(『日本将棋集成』)、「将棋の町天童」の名はさらに高まりました。
また、春の桜祭りには将棋供養祭や人間将棋が行われ、天童の観光に一役買っていて(『地名大辞典』)、貴重な観光資源となっているのです。
天童温泉
話は少し前にさかのぼりまして。
明治19年(1886)旧山元村地内の鎌田原で、用水井戸掘りの際に、偶然、微温泉が出ました。
この時は温度が低かったこともあって開業には至らず、あらためて47度の温泉を掘りだして湯屋を開業したのが明治44年(1911)のことです。
当初は田んぼの中に小屋掛けがある程度の湯屋でしたが、次第に温泉旅館を営む者がおおくなって、ついには温泉町が出来上がるまでになりました。
この温泉、はじめは地名をとって鎌田温泉といっていましたが、のちに村の名をとって津山温泉と改名し、大正11年(1922)には津山温泉宿屋組合が結成されます。
そしてさらなる集客を目指して、当時ようやくその名が知られはじめていた隣町の天童の名を拝借して、大正13年(1924)天童温泉と改称したのです。
ねらい通りに天童の名が上がるにつれて、天童温泉の知名度もアップしたのですが、津山村にあるのに隣町の天童の名を冠する状態が続いていました。
そんななか、昭和29年(1954)に天童町と成生、蔵増、寺津、津山、山口、田麦野の6カ村が合併して新生・天童町となったうえに、昭和33年(1958)には天童町に市制が施行されて天童市が誕生したのです。
いでゆと将棋の町・天童
こうして天童温泉は天童を代表する観光保養地となって、山形県有数の温泉街にまで発展するまでになりました。
現在は「いでゆと将棋の町」として天童の魅力をアピールしているのは第1話「『3月のライオン』と天童」で見たとおりです。
じつは、織田信長は大の将棋好きだった(『日本将棋集成』)こともあって、織田家が天童の発展に寄与しているともいえますが、吉田大八の思いを継いだ天童の人々の努力が「観光都市」天童を作り上げてきたのはまぎれもない事実です。
ところで、ここまで見てきたように、天童はこれほどの将棋ゆかりの地でありながら、東北地方の他県に比較して、かならずしも多くの棋士を輩出しているとはいえない状況にあり(『日本将棋集成』)、そしてなにより山形県は名人を輩出していないという事実があります。
だからこそ、地元出身の名人誕生を願う人々の思いは募るばかり。
この思いが『3月のライオン』島田八段を苦しみ続けることになっています。
しかしなんだか、苦しみつつも地元の熱い声援と深い愛情に、島田八段ちょっとうれしそうに見えるのは私だけでしょうか。
久々にいっしょに『3月のライオン』を読んでいた子供がポツリとひとこと。
「私、天童に行ってみたいな・・・」
コロナが終わったら、きっと行こうね、と固く約束をかわしたのでした。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
「薩州藩届書写」『太政官日誌 第三十九 慶応四年戊辰秋七月』
『東京府下焼失跡測量家作図』太政官、明治5年2月
『官許貴家一覧 武家華族之部』雁金屋清吉、1873)
『明治華族銘鑑』石川孝太郎(深沢良助、1881)
『華族部類名鑑』安田虎男(細川広世、1883)
『華族名鑑 新調更正』彦根正三(博公書院、1887)
『華族名鑑 更新調正』彦根正三(博行書院、1891)
『吉田大八』渡辺克(明進堂、1892)
『新撰華族名鑑』本田精志編(博文館、1899))
『人事興信録初版』(人事興信所、1911)明治36年4月刊、
『山形県名勝誌』山形県、1908
『人事興信録 3版(明治44年4月刊)皇室之部、皇族之部、い(ゐ)之部−の之部』人事』人事興信所編(人事興信所、1911)
『人事興信録 4版』人事興信所編(人事興信所、1915)
『人事興信録 5版』人事興信所編(人事興信所、1918)
『人事興信録 6版』人事興信所編(人事興信所、1921)
『寛政重修諸家譜 第3輯』国民図書、1923
『東村山郡史 続編巻2』山形県東村山郡編(山形県東村山郡、1923)
『人事興信録 7版』人事興信所編(人事興信所、1925)
「オルゴールの歌」織田小星『金の星』第7巻第2号、金の星社、1925
『大阪朝日新聞』大正15年(1925)1月7日付朝刊7面
『正チャンの其後』(織田)小星作・東風人画(東京朝日新聞社、1926)
「矢村の彌助」織田小星・水島爾保布『金の船・金の星』第8巻第8号、金の星社、1926
『人事興信録 第8版(昭和3年)』人事興信所編(人事興信所、1928)
『人事興信録 第9版(昭和6年)』人事興信所編(人事興信所、1931)
『人事興信録 第10版(昭和9年)下巻』人事興信所編(人事興信所、1934)
「天童将棋駒」篠崎高之助・栗林剛『郷土研究 第2輯』山形県女子師範学校編(山形県女子師範学校、1936)
『群馬県史 第2巻』群馬県教育会編(群馬県教育会、1937)
『人事興信録 第12版(昭和14年)下』人事興信所編(人事興信所、1939)
『日本放送協会史』日本放送協会編(日本放送協会、1939)
「硫酸アンモニア増産及配給統制法施行規則」『肥料関係法規』農林省農務局編(農林省農務局、1939)
『人事興信録 第13版 下』人事興信所編(人事興信所、1941)
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『中央区年表 明治文化篇』東京都中央区立京橋図書館、1958
『議会制度七十年史 第1 貴族院議員名鑑』衆議院・参議院編(大蔵省印刷局(印刷)、1960
『朝日新聞』昭和40年(1967)5月21日付、東京、朝刊15面
「天童藩」誉田慶恩『新編物語藩史 第一巻』児玉幸多・北島政元監修(新人物往来社、1975)
『ものと人間の文化史23 将棋』増川宏一(法政大学出版局、1977)
『角川日本地名大辞典 6山形県』「角川日本地名大辞典」編纂員会・竹内理三編(角川書店、1981)
『重臣たちの昭和史 上』勝田龍夫(文芸春秋社、1981)
「戊辰戦争における三百藩動向一覧」神谷次郎/「廃城一覧」森山英一『幕末維新史事典』小西四郎監修、神谷次郎・安岡昭男編(新人物往来社、1983)
『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』古川ロッパ著、滝大作監修(晶文社、1987)
『江戸幕藩大名家事典 上巻』小川恭一編(原書房、1992)
「織田小星」竹内オサム『日本児童文学大事典』第一巻、大阪国際児童文学館編(大日本図書、1993)
「高畠藩」「天童藩」伊豆田忠悦、「小幡藩」阿久津宗二『三百藩藩主人名事典 第一巻』藩主人名事典編纂委員会(新人物往来社、1995)
『日本将棋集成』窪寺紘一(新人物往来社、1995)
『将棋の博物誌』越智信義(三一書房、1995)
『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館華族家系大成編輯委員会編(㈳霞会館・吉川弘文館、1997)
『山形県の歴史』横山昭男・誉田慶信・伊藤清郎・渡辺信(山川出版、1998)
『日本歴史大事典』小学館、2000
『漫画家人名事典』まんがseek・日外アソシエーツ編集部編(紀伊國屋書店、2003)
『新訂 政治家人名事典-明治~昭和』日外アソシエーツ編(東京日外アソシエーツ、2003)
『20世紀日本人名事典 あ~せ』日外アソシエーツ編(紀伊國屋書店、2004)
「1920年代視覚メディアの一断面 ―『大地は微笑む』と「朝鮮」―」梁 仁實『立命館産業社会論集』第43巻第1号、2007
『江戸時代全大名家事典』工藤寛正編(東京堂出版、2008)
『マンガ学入門』夏目房之介・竹内オサム(ミネルヴァ書房、2009)、
『3月のライオン』第5巻 羽海野チカ(白泉社、2010)
「天童藩」伊豆田忠悦『藩史大事典 第1巻 北海道・東北編』木村礎・藤野保・村上直編(雄山閣、2015)
「木戸幸一研究:その政治的人格の形勢と構造」角田竹男『北大法政ジャーナル23.115‐146』2016
『まんがでわかるまんがの歴史』作:大塚英志・まmが:ひらりん(KADOKAWA、2017)
『日本の漫画本300年 ―「鳥羽絵」本からコミック本まで-』清水勲・猪俣紀子(ミネルヴァ書房、2019)
「災害に学ぶ」国立公文書館Webサイト、安達峰一郎記念財団Webサイト、山形県Webサイト
参考文献:
「お雪と重吉」織田小星『金の星』第7巻第11号、金の星社、1925
「草とり二王」織田小星・岡本歸一『金の星』第8巻第4号、金の星社、1926
「藤戸の笹無山」織田小星・樺島勝一『金の星』第8巻第5号、金の星社、1926
「へいぼう太郎」織田小星・寺内萬治郎『金の星』第8巻第6号、金の星社、1926
「阿蘇沼のおしどり」織田小星・岡本歸一『金の星』第8巻第7号、金の星社、1926
『華族家庭録 昭和11年12月調』華族会館編(華族会館、1927)
『山形県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第3輯』山形県編(山形県、1928)
『出羽百姓一揆録』山形県経済部編(山形県経済部、1935)
『山形県の史蹟と名勝』山形県教育会、1936
「日本硫安株式会社定款」『肥料関係法規』農林省農務局編(農林省農務局、1939)
次回は、江戸の天童藩上屋敷を歩いてみましょう。
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