新宮水野家の歴史イッキ見【紀伊国新宮水野家(和歌山県)3】

前回は、新宮についてみてきました。

今回は、新宮水野家のおよそ500年の歴史を、年表形式で一気に見してみましょう。

寛治4年(1090) 白河上皇の第一回熊野参詣行われる。

承久3年(1221) 承久の乱で熊野別当の快実が後鳥羽上皇の倒幕運動に協力し、鎌倉幕府によって壊滅させられる。

後白河上皇(Wikipediaより20220210ダウンロード)の画像。
【後白河上皇(Wikipediaより)】

戦国時代末 堀内氏、熊野地方を統一する。

文禄元年(1592)豊臣秀吉の命により、熊野水軍朝鮮へ出陣。

慶長5年(1600)10月 浅野幸長、37万6,000石で紀伊入国。家老浅野忠吉、2万8,000石で新宮領主となる。

慶長6年(1601)6月 浅野忠吉、新宮城の築造に着手か。

慶長18年(1613) 浅野長晟、紀伊国を襲封する。

        12月 北山一揆起こる。

元和5年(1619)7月 浅野忠吉、浅野長晟の安芸国転封により備後国三原に移る。

  7月19日 徳川頼宣、55万5,000石で紀伊入国。

      付家老水野重央(重仲)、3万5,000石で新宮領主となる。

元和7年(1621)11月12日 水野重央、死去。

元和9年(1623)6月 二代水野重良、襲封する。

寛永10年(1633) 新宮城完成する。

貯木場(『旅は紀州路』和歌山県知事官房統計課-編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【貯木場『旅は紀州路』和歌山県知事官房統計課-編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション】

寛永17年(1640) 材木置場、池田に創設される。

慶安3年(1650) 新宮材木問屋、江戸送り材の品質について規制を受ける。

明暦元年(1655)新宮で大火、町中全焼。

万治元年(1658)9月25日 三代水野重上、襲封する。

延宝6年(1678) 御炭役所、深谷に創設される。

天和元年(1681)7月2日 新宮材木問屋の営業者数、25人。

宝永4年(1707)4月7日 四代水野重期、襲封する。

宝永8年(1711)8月 新宮廻船問屋成川屋の持船数、49隻を数える。

正徳4年(1714)5月11日 五代水野忠昭、襲封する。

享保3年(1718)5月11日 新宮与力、紀伊本藩主に御目見する。

        閏10月 新宮川原にて操芝居行われる。

享保10年(1725)10月 備長炭20万俵、江戸に送る。

享保12年(1727) 浪人浅井専右衛門、新宮で寺子屋を始める。

享保16年(1731) この頃、伊藤東涯の内弟・宇井愷翁、新宮で漢学塾・鬱翠園を開く。

元文元年(1736) 水野忠昭の命で「秦徐福之墓」の石碑が建てられる。

熊野川(『新宮町郷土誌』和歌山県東牟婁郡教育会第一部会-編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【熊野川『新宮町郷土誌』和歌山県東牟婁郡教育会第一部会-編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション】

寛延2年(1749)11月19日 六代水野忠興、襲封する。

宝暦9年(1759)2月20日 炭納屋13軒・炭俵10万俵焼失する。

宝暦13年(1863)8月6日 七代水野忠竒、襲封する。

寛政元年(1789)5月5日 三輪崎へ亜米利加船来る。

寛政6年(1794)6月 本藩主徳川治宝、新宮に来る。

寛政11年(1799)5月 前本藩主徳川重倫、新宮に来る。

享和元年(1801) この年、熊野三山巡礼3万人通る。

享和3年(1803) 本草学者・小野蘭山、薬草採取のため熊野地方を訪れる。

文化3年(1806) 藩校漢学所が設立される。

文政2年(1819) 熊野材取引の却売株が認められて、22名に営業が許可される。

文政5年(1822)6月5日 八代水野忠啓、襲封する。

天保2年(1835) 渥美源五郎、若山より来り城内見分する。

天保6年(1835)8月16日 九代水野忠央、襲封する。

           この頃、横町久兵衛、新宮で銭湯を始める。

天保12年(1841) 幕府の浦回役人4人、新宮に来る。

          小松純斉、新宮で数学・暦法を講ずる。

水野忠央(Wikipediaより20220215ダウンロード)の画像。
【水野忠央(Wikipediaより)】

嘉永元年(1848) 水野忠央、山田常典らに編纂・版刻させた『丹鶴叢書』11冊を幕府に進献する。

嘉永3年(1850)11月 湯川寛仲、人体解剖を行う。

嘉永5年(1852)12月7日 隠居藩主徳川治宝死去する。水野忠央、治宝系の本藩重臣を排斥し、付家老として本藩の実権を握る。

嘉永6年(1853)12月10日 水野忠央、与力を増員し、新規に召抱える。

 12月20日 領内の与力上げ知・約7,000石が水野家に返還され新宮領となる。

安政2年(1855)3月5日 水野忠央、新宮領と本藩領との付替えを企てるが、本藩領民の反対で騒動となる。(付替え騒動)

安政3年6月14日 新宮与力の本藩直臣の身分を解き、水野家の家臣とする(与力の陪臣化)

      水野忠央、本藩主徳川慶福を将軍に擁立するために運動を始める。

安政4年(1857)7月22日 新宮領と本藩領の付替えの儀、永据置となり騒動おさまる。

安政5年(1858)6月25日 水野忠央、本藩主徳川慶福を将軍継嗣とすることに成功する。

        9月 洋式帆船・一之丹鶴丸が池田で進水する。

万延元年(1860)6月4日 水野忠央、隠居・新宮に謹慎を命ぜられる。十代水野忠幹、襲封する。

水野忠幹(三の丸尚蔵館収蔵品目録-写真 明治十二年-明治天皇御下命『人物写真帖-上』 宮内庁三の丸尚蔵館所蔵、Wikipediaより20220122ダウンロード)の画像。
【水野忠幹(三の丸尚蔵館収蔵品目録-写真 明治十二年-明治天皇御下命『人物写真帖-上』 宮内庁三の丸尚蔵館所蔵、Wikipediaより)】

文久元年(1861)9月21日 英船、大島橋杭に入津する。

文久2年(1862)6月25日 水野忠央、御殿「破瀲館(はれんかん)」を建てる。

文久3年(1863)10月26日 水野忠幹、天誅組の乱で本宮へ警固に出陣する。

慶応元年(1865)5月19日 長州征伐のため、水野忠幹軍が和歌山を出発。

慶応2年(1866)6月 5日 先鋒総督の和歌山藩主徳川茂承が広島国泰寺の本営に入る。

       6月14日 彦根・高田両藩兵が侵攻を試みて芸州口開戦。

       6月18日 水野忠幹、芸州大野の合戦で勝利する。

       6月25日 水野忠幹、大野村に攻め込んだ長州軍を撃退。

       7月28日 征長軍、大野村に侵攻。

       8月2日 征長軍、大野村から南進するものの撃退される。

       8月7日 長州軍の大野村進攻を撃退する。

       9月4日 征長軍先鋒総督・和歌山藩主徳川茂承、芸州口と石州

            口の征長軍に解散を命じる。

慶応4年(1868) 1月3日 鳥羽伏見の戦い

明治元年(1868)1月14日 水野忠幹、藩屏の列に加えられ新宮藩を立藩する。

        8月27日 水野忠幹、和歌山藩付家老の執務から解放される。

明治2年(1869)3月28日 水野忠幹、版籍奉還を上表する。

        6月29日 水野忠幹、新宮藩知事に任命される。

        9月 政府雇用の英人カツル、勝浦に上陸、鉱山を視察する。

        10月 藩校漢学所を育英堂と改称する。

明治3年(1870)6月 新宮藩の兵制を英式から仏式に改める。

明治4年(1871)7月14日 新宮藩を廃止し新宮県が置かれる。

    8月 銭預切手の回収を命ぜられ、立用手形銭27万9,275貫文発行する。

       11月22日 新宮県を廃止し和歌山県と度会県に分属させる。

       12月25日 新宮藩常備兵を解散する。

新宮全景(東半)(『新宮町郷土誌』和歌山県東牟婁郡教育会第一部会-編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【新宮全景(東半)『新宮町郷土誌』和歌山県東牟婁郡教育会第一部会-編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション】

明治10年(1877)ころ 水野忠幹、深川三好町で事業をはじめるものの失敗する。

明治17年(1884)7月7日 華族令により水野男爵家誕生。

明治29年(1896)4月 新宮町仲之町で大石誠之助が医院を開業。

明治35年(1902)1月 嫡男忠宜が八甲田山雪中行軍遭難事件で事故死。

      4月30日 水野忠幹、療養中の鎌倉の高松寺で病没。

      5月30日 水野重吉が襲爵。

明治43年(1910)6月6日 大石誠之助らが「大逆事件」(幸徳事件)に関連して拘禁、東京に護送される。

明治44年(1911)1月24日 大石誠之助と成石平四郎の2人が幸徳秋水らとともに処刑される。

昭和2年(1927)3月14日 金融恐慌が起こる。この影響で南海銀行は大同銀行に救済合併されたほか、和歌山県下で銀行の破綻が相次ぐ。

昭和3年(1928)9月1日 水野忠武が襲爵。

昭和23年(1948) 華族制廃止により水野男爵家廃爵。

平成16年(2004) 「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録される。

ここまで新宮と新宮藩水野家の歴史を年表形式でイッキにみてきました。

そこで次回からは、新宮と新宮藩水野家の長い歴史の中でもポイントを絞ってみていきたいと思います。

まずは新宮の歴史のはじまり、熊野詣からみてみましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です