五島の歴史イッキ見!【維新の殿様・五島(福江)藩五島家③】

前回は五島を地理的にみてきました。

今回は、五島の歴史を年表にして、一気に見ていくことにしましょう。

海上交通の要衝として

天平12年(740) 藤原広嗣が反乱を起こすものの敗れて「等保値嘉嶋」で捕らえられる。

宝亀 8年(777) 最澄、空海らを乗せた第16次遣唐使、五島から出航する。

貞観18年(876) 太宰権帥在原行平の上申により「値嘉島」設置される。

吉備大臣入唐絵巻〔部分〕(ボストン美術館蔵、Wikipediaより20210827ダウンロード)の画像。
【遣唐使船 吉備大臣入唐絵巻〔部分〕(ボストン美術館蔵、Wikipediaより】

仁寿3年(853) 円珍、「大唐国商人欽良睴」の船で博多から五島の鳴浦(奈留浦)経由で中国へ渡海。

960年 太祖趙匡胤が宋建国。このあと日宋貿易が盛んとなり、五島が中継地として栄える。

永徳 3年(1383) 宇久家8代宇久覚(さとる)、宇久島から福江島の岐宿へと本拠を移す。

嘉慶2年(1388) 宇久家9代宇久勝(まさる)、岐宿から深江(のちの福江)辰の口に城を築いて本拠とする。

このころ宇久氏が朝鮮から「五島太守」として通行を認められる。

永正 4年(1507) 玉之浦納の乱がおこり、辰の口城は焼失。

大永 2年(1562) 宇久定盛、玉之浦納を破って領地を回復し、新たに福江江川に城を築いて本拠とする。

天文9年(1540) 中国人「倭寇」の頭目・王直と宇久盛定が密約を結び、王直は深江(福江)に本拠を移す。

永禄9年(1566) アルメイダ修道士と日本人キリシタン・ロレンソが宣教のために来島。

 このころの五島の様子がルイス・フロイス『日本史』に描かれる。

南蛮船(Wikipediaより20210830ダウンロード)の画像。
【南蛮船(Wikipediaより)】

朝鮮出兵と関ケ原

天正15年(1587) 宇久純玄、豊臣秀吉から本領安堵される。

文禄 元年(1592) 宇久純玄、文禄の役に出兵。このころ、宇久姓を五島に改める。

文禄  3年(1594) 宇久純玄、戦地で病没。大浜玄雅継嗣する。

慶長 2年(1597) 五島玄雅、慶長の役に出兵。

         有川村江口甚右衛門が有川湾で突取捕鯨を開始。

慶長  5年(1600) 五島玄雅、関ケ原合戦に出陣するが途中で引き返す。その功により本領安堵される。

慶長10年(1605) 五島玄雅、西洋への渡海朱印状を受ける。

朱印船画像(Wikipediaより20210830ダウンロード)の画像。
【朱印船画像(Wikipediaより)】

五島藩、藩主権確立への道

慶長19年(1614) 五島盛利、「福江直り」を計画するも、江川城全焼で中断

元和  3年(1617) 福江石田浜に陣屋を築く。

元和  5年(1619) 大浜主水事件起こる。

元和  7年(1621) 五島盛利と主水、江戸に召されて幕府の裁可下る。

寛永  4年(1627) 有川江口甚右衛門と魚目川崎伝右衛門、捕鯨をめぐって争う。

寛永  9年(1632) 領内検地をおこなう。

寛永 11年(1632) このころ「福江直り」完了する。

寛永 14年(1637) 石田陣屋完成。島原の乱に出兵。

寛永 16年(1639) 家臣の座列を改め、中世以来の体制を改める。

寛永 18年(1641) 幕府、五島藩に参勤交代を免じ異国船警備役を命じる。

明暦 元 年(1655) 五島盛嗣死去し嫡子盛勝襲封。叔父の盛清後見役となる。

万治  3年(1660) 五島盛清、3,000石分知を幕府から許可される。

天和 元 年(1681) 富江、有川湾の漁業権について幕府巡検使直訴する。

元禄 11年(1698) 大浜彦右衛門、父主水の無罪を幕府に訴える。

背美鯨(『鯨史稿 巻二』大槻準 編、国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【背美鯨『鯨史稿 巻二』大槻準 編、国立国会図書館デジタルコレクション】

行き詰まる藩政

宝暦  2年(1752) 鯨組、江口氏の一手請負とする。

宝暦 11年(1761) 三年奉公制はじまる。

安永 元 年(1772) 大村領より移住農民を求める。

文政4年(1821) 藩校至善堂も規模を拡大して、名称を育英館に改称。

天保 元 年(1830) 借財が一万三千両を超え、町人らに献銀を求める。

天保  5年(1834) 藤原友衛、財政策を献策、有川産物会所を設置する。

天保 13年(1842) 藩政改革に着手。山田蘇作事件起こる。

高まる異国船の脅威

弘化  2年(1945) 領内に鎌・熊手を用意させて領民に異国船に備えさせる。

嘉永  6年(1853) 大調練行われる。

文久  3年(1863) 石田城完成する。

元治 元 年(1864) 領内農民の軍備編成体制をしく。

慶応  2年(1866) 坂本龍馬、来島する。

「坂本龍馬肖像」(『土佐の勤王』徳富蘇峰(民友社、1929)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「坂本龍馬肖像」『土佐の勤王』徳富蘇峰(民友社、1929)国立国会図書館デジタルコレクション】

近代への道

明治 元 年(1868) 藩主盛徳、藩兵を率いて上洛する。

富江領、福江藩への合併が命じられ、反対運動起こる。井上聞多、説得に来島。

明治  2年(1869) 五島で隠れキリシタン露顕、大弾圧「五島崩れ」はじまる。

明治  4年(1871) 福江藩、福江県となり五島盛德が知藩事となる。

     福江県廃止し長崎県に併合。盛德知藩事解任され上京を命じられる。

五島子爵家と地域振興

明治10年(1878) 隠居中の五島盛成、福田城跡を買い取り隠田屋敷を建てる。

明治 17年(1885) 五島盛主、子爵に任じられる。

明治31年(1898) 五島盛光、五島中学校建設に土地と多額の建築費を寄付。

明治36年(1903) このころ、上京した野依秀一(のちの秀市)を東京屋敷の門番に採用する。

大正10年(1921) 五島盛光、貴族院議員に互選される。

昭和20年(1945) 五島盛輝、長崎で被爆して亡くなる。

五島の歴史を駆け足でたどってみましたが、本土から離れた離島で外国に近いこともあって、その歴史がかなり個性的だと思いませんでしたか?

そこで次回からは、あらためて年代順に五島の歴史をみていくことにしましょう。

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