前回は、柳川とはどういうところなのか、柳川を含む筑後平野南部について、地理的環境を中心にみてきました。
そこで今回は、柳川の歴史を年表形式でイッキに見てみましょう。
柳川と立花家の戦国時代
戦国時代 柳川城が築城される。
天正13年(1585)9月、立花道雪、筑後国高良山の陣中で没する。
天正14年(1586)立花宗茂、筑前国立花山城で島津軍を迎え撃つ。
天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐で立花宗茂活躍する。
文禄元年(1592)秀吉は朝鮮半島に大軍を派遣、宗茂も出陣する。
文禄2年(1593)碧蹄館の戦いで宗茂、武功をあげる。
慶長2年(1597)12月 第一次蔚山城攻防戦はじまる。
慶長3年(1598)8月 第二次蔚山城攻防戦はじまる。
慶長3年(1598)10月 霊梁海戦で宗茂奮闘する。
慶長5年(1600)宗茂、徳川家康からの誘いを断り西軍につく。
9月7日 大津城攻防戦開始。
9月15日 関ケ原合戦で石田三成率いる西軍が敗退。
10月25日 宗茂、柳川城を開城する。
田中家時代
慶長6年(1601)田中吉政、三河国岡崎城・西尾10万石より筑後国32万5,000石の城主として柳川城に入封する。
慶長9年(1604)久留米瀬の下に筑後川に通じる新川を開いて舟運の便を計る。また、安武堤防の工事に着手。
慶長14年(1609)2月18日 吉政、参勤途中に伏見で没す。
4月 3日 吉政の四男忠政、家督を相続。
元和元年(1615)5月 大坂夏の陣に遅参し、七年間の江戸滞留を命ぜられる。
元和6年(1620)8月7日 忠政没す。世嗣断絶のため領地を没収される。
立花宗茂帰環
元和6年(1620)11月27日 立花宗茂、陸奥国棚倉3万石より柳川10万9,600石に再封される。
寛永14年(1637)4月、二代忠茂、養父宗茂の隠居に伴って家督を相続する。
寛永15年(1638)1月 宗茂と忠茂、島原の乱に出陣。
正保4年(1647)6月24日 ポルトガル船二隻、長崎に入港。柳川藩は警固のため士卒3,870余人を長崎に送る。
寛文4年(1664)閏5月 三代鑑虎、父忠茂の隠居に伴って家督を相続。
延宝元年(1673) 有明海で干拓地・黒崎開が完成。
元禄5年(1692)4月 領内図ならびに諸事説明書を幕府に献ず。
元禄10年(1697)藩主の別業なる。御茶屋という、のちに花畠(お花)と称する。
正徳3年(1713)7月13日 大風雨。堤防破壊63ヵ所、浸水家屋5,773戸、溺死者349人、死馬228頭。
享保2年(1717)8月 田尻総馬、蓮池山に大堤を築く。
享保6年(1721)11月 家老小野春信、高取山を開坑し、石炭を掘る。
享保14年(1729)農民600人が肥後藩に逃散す。呼び返し、そのうち11人はりつけ。
享保16年(1731)8月9日 大凶作。幕府より恩貸1万両借入。
12月 飢民4万5,000人、餓死者123人、死馬3,000頭。幕府米1万5,800石貸与。
享保18年(1733)3月 城下大火。侍屋敷30戸、屋敷150戸、寺社9,町家44戸、楼門2か所焼失。焼死7人、負傷30人。
延享元年(1744)柳川藩の享保の改革失敗に終わる。
延享3年(1746)6月 参勤途上で藩主貞則、豊後国大里浜において暴漢に襲われて死去。
宝暦元年(1751)7月 四ヵ所通久を奉行に抜擢し、宝暦の改革はじまる。
宝暦4年(1754) 御借辛子の制度を導入。
寛政改革
寛政元年(1789) 家老立花寿賰・十時恰ら藩政改革を図る。条目を発布し、奢侈を戒め、勤倹尚武の風を興す。
寛政10年(1798)閏7月 豪傑組崩れ。旧習派家老小野勘解由、寛政の急進的改革派立花寿賰ら数十人の官禄を剝奪、追放した。
享和3年(1803)2月29日 立花寿賰に花畠御用掛を命ず。豪傑組の多くが復職していく。
文化9年(1812)10月13日 伊能忠敬、柳川に入る。
文化13年(1816)8月24日 幕府、旧三池藩領の三池郡のうち15ヶ村1万4,840石2斗2升4合を柳川藩に預ける。
文政7年(1824)7月13日 藩校伝習館を開設する。
天保4年(1833)2月 十代藩主鑑広が病没、ひそかに鑑備が家督を継ぐ。
最後の藩主・鑑寛の時代
弘化3年(1846)6月 十二代鑑寛が家督を継ぐ。
嘉永2年(1849)藩内ではじめて種痘を行う。
嘉永4年(1451)下手渡藩主立花種恭に旧領三池5,000石が復封となり、柳川藩預かりは9,840石余となる。
嘉永6年(1853)11月14日 柳川藩、上総海岸の警固につく。
安政6年(1859)9月 家老立花壱岐親雄を登用して藩政改革を断行する。
文久3年(1863)6月8日 柳川藩、泉州堺警固を命じられる。
元治元年(1864)11月14日 第一次長州戦争で、柳川藩、筑前植木に出兵する。
慶応2年(1866)6月 第二次長州戦争で、柳川藩、豊前城野村に出兵する。
慶応3年(1867)10月14日 大政奉還
戊辰戦争
慶応4年(=明治元年)(1868)5月1日 新政府軍が白河小峰城奪還。
6月20日 柳川藩兵、常陸国平潟に上陸する。
6月28日 新田坂の戦い
7月14日 平城落城
7月27日 越後国太夫浜上陸作戦
7月29日 二本松城落城
8月16・17日 下手渡の戦い
8月23日 新政府軍、若松城下に進撃。
8月23日(新暦9月18日)咸臨丸を清水港で捕獲。
9月22日 会津藩降伏
9月 三池藩がふたたび立藩となり、預り地を返上。
柳川県時代
明治2年(1869)3月 文武館を再興。
6月2日 奥州出兵賞典禄5,000石が与えられる。
6月24日 鑑寛、柳川藩知事となる。
明治4年(1871)7月14日 廃藩置県、柳川県となる。
11月14日 久留米・柳川・三池の三県を合併して三瀦県を置く。
このころ柳川・三の丸長久寺内に洋学校を開く。
立花伯爵家
明治5年(1872)1月18日 原因不明の火災により柳川城焼失
明治11年(1878) 先代藩主鑑寛、柳川へ帰還する。
このころ、立花家当主・寛治は学習院を経て津田仙設立の学農社農学校に入学する。
明治17年(1884)7月 華族例制定に伴い、立花家が伯爵に叙される。
明治19年(1886) 寛治、柳川郊外の福岡県山門郡川辺村に私立農事試験場(立花農事試験場)を開設する。
昭和4年(1929) 寛治の死去に伴い、鑑德が襲爵。柳川に還り橘香園を開設。
昭和9年(1934) 鑑德の一人娘文子、島村和雄と見合いして翌年結婚する。
昭和20年(1945)8月 終戦
昭和21年(1946)3月 鑑德が隠居し、和雄が家督を継ぐ。
昭和23年(1948) 華族制廃止により立花伯爵家廃爵
昭和53年(1978)3月 広松伝の奮闘で、柳川市議会で掘割の浄化計画が認可、水郷柳川復活への歩みがはじまる。
昭和62年(1987)8月15日 高畑勲監督・脚本、宮崎駿製作『柳川掘割物語』公開開始
今回は、柳川の歴史を年表形式でイッキに見てきました。
そこで次回からは、柳川と立花家の歴史のポイントをじっくりとみていくことにしましょう。
家紋が柳河藩のものじゃなくて三池藩立花家のもんやな。
1様
ご教示ありがとうございます。
この点では、私もかなり悩みました。
『藩史大事典』『江戸時代全大名家事典』『江戸幕藩大名家事典』によると、こちらが正しいとなっています。
ただ、江戸時代前期は、縦長の立花守(祇園守)が使われてたのは間違いありません。
江戸時代後期には、たしかにこちらの丸い立花守を使っていました。
これが、明治時代中期頃から、再び縦長のものに戻っています。
このような状況ですので、縦長のものにするのか、丸いものにするのか非常に迷いました。
現時点では、先に挙げた事典類に従って、丸い立花守にしたのです。
変えるとすれば、江戸時代前期までと明治時代以降を縦長のものに変えることになりますが。
この点、1さんのご意見を伺えたらとお願いいたします。
トコトコ鳥蔵
家紋は、柳川藩主立花家の御定紋で間違いないと思います。
立花家の家紋については、立花家史料館から公式動画で詳しく説明してくれてますよ。
https://youtu.be/Z9WBENE4L5k
ひまわり様
ご連絡ありがとうございます。
まさか藩主の代ごとに替わっているとは思いもしませんでした。
そのような事例は初めて耳にしたので、本当に驚いています。
教えていただき、本当にありがとうございました。
まずは取り急ぎお礼まで。
今後ともよろしくお願いいたします。
鳥蔵柳浅